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第39話 怖いこと
「……凪」
英次は一度だけ俺の名前を呼んで、そして、歩き始めた。いつもなら、先を歩く前に「帰るぞ」とか声をかけてくれるのに、今、それをしなかった。
俺が、英次と一緒に帰らないかもしれない、そんな余地を含んでいた。
ねぇ、英次、さっきの、すごく嬉しかったんだ。俺は英次にとって特別って言ってもらえたの、本当に嬉しくて泣きそうだった。
でもさ、その前に言った一言が、俺はイヤだったよ。
普通の幸せって、何?
俺にはそれがなんなのかわからない。普通って何? それってすごく大事なことなの? こんなに焦がれて涙が勝手に溢れるくらい想っている英次と、その英次に特別だともらえた俺が、こうやって一緒にいられる、キスして、笑って、抱き合って、そんなことを我慢してまで、その「普通」って必要?
その普通がずっと英次を縛り付けてたんだ。動かないように、近くにいけないようにって。
「ただいま」
「……あぁ」
英次はそれだけ返事をして、ひとつ小さく溜め息を零した。ホッとしたような、英次も飲み会だったから、ようやくゆっくりできるって一息つくような、そんな溜め息。
帰り道、一言も話さなかった。英次は俺を見ないで、ついてきているのかも確認しないで、ただ、真っ直ぐ家に向かって歩いてた。きっと足音とかで俺が少し後ろにいることは気がついていただろうけどさ、でも、一度も振り返らなかった。
もしも俺がその普通を選んでたら? 英次を好きでいることをやめるってなったら、そしたら、どうすんの? 足音がしなくなっても、ずっと振り返らずに帰っちゃったの?
俺がどこに行っても、いいかよ。
「こぇな……」
「え?」
空耳? 今の、英次が言った? 怖い、って。
「ずっと欲しいと思っていた凪を手に入れたって、そう思って、喜んでたのに」
振り返ったその表情は苦しそうで切なくて、見てるだけで胸んところが苦しくなる。
「手に入れたら、今度は、どっかいっちまうかもって、怖くなる」
「えい、じ」
「今時、同性愛だからって、世界中から非難されたりしねぇよ。お前が、あの同級生と付き合ってても、それは個人の自由だと尊重される」
その声を聞くだけで、涙が出そうになる。
「でも、俺とお前の場合はそれだけじゃ済まない」
「えいっ」
「叔父と甥だ。それはきっと世界中が怪訝な顔をする」
「そんなんっ」
「あぁ」
英次が笑ったのに、切なくなる。
「そんなんわかってた。別に非難されたってかまわない。全部受けるよ。俺が。それは怖くない。でも――」
「英次っ」
触れられたら、泣く。
「でも、お前が普通の幸せを選びたいって言ったらと、怖くなった」
世界中に非難されたって平気だって言ってのける男が、たかが俺ひとりを失うことに、こんな顔をするくらい怖いだなんて。
「凪が正しい道を選ぶのが、ひどく怖い」
けどさ、英次に触れたら――。
「怖がんないで」
ただそれだけで、笑顔になってくれた。俺の、この、英次のことちっとも守れない非力な掌で、笑顔にしてあげられた。
「英次とずっと一緒にいたい。本当に好きなんだ。ずっと、ずっと好きだ」
「凪」
「俺、きっと、英次がもう離れろって言っても、離れねぇし」
そして、俺よりももっと厚い胸に飛び込んで、抱きついた。
「なんか、あればいいのに」
「凪?」
「俺はずっと英次のものだよって、どこにも行かないって、なんかわかるようなさ」
ないかな。俺は英次のだって、教えてあげられる方法。あったら、やったげるのにな。俺、なんでもする。
英次があんな苦しそうな顔ををしないで済むのなら、全身使って、英次に教えるのに。
「……凪」
「? ん、ン、ふっ……ぁ、ン」
英次のキスしか欲しくないんだ。英次になら、俺、何されたって嬉しいし、気持ちイイって、声で、身体でいくらでも表せ……る。
「英次」
シュルリと心地いい音を立てて、英次の首から解けたネクタイ。俺がプレゼントした紫と青を混ぜたような深くて綺麗なネクタイ。それを解いて、そして、俺の手首を頭上で束ねた。
「英次っ」
好きな人にプレゼントしたネクタイで縛られる。
「こんなことしたって、また、きっと」
「なら、もっと、きつく縛ってよ」
手が使えないから、英次がして。痕が付くくらいきつく俺のこと、縛って。
「俺のこと、もっと、して」
不安になんてならなくていいのに。帰るぞって、ぶっきらぼうに言ってのけて、そんで、そのままスタスタ歩いていいよ。家に着いたら、当たり前みたいに俺におかえりって言ってよ。そしたら、一緒に帰ってきたじゃんかって笑うから。だから、あんな背中しないでよ。
「俺のこと、もっと、独り占めして」
縛っても、放って置かれても、俺は英次のことだけを想ってる。追いかけたいのは英次だけだよ。だから――。
「んんっ……ン、んふっ……ん、く」
まだ、靴を脱いでもいない。ただいまって言ったっきり、ふたりして玄関のところに突っ立ってた。玄関扉が大きな音を立てた。青紫のネクタイで縛られた手首を頭の上で扉に押し付けられて、英次の舌が荒く、口の中をまさぐっていく。
「っぷは! あ、ン、んんん」
息継ぎをして、また角度を変えて、舌でぐちゃぐちゃに掻き回して、飲んで、吐息を貪り合う。玄関のところで外から帰ってきたまんまの格好で唇がびしょ濡れになるくらいにキスをした。
「英次……俺さ、今日の飲み会ね」
軽々と持ち上げられた。抱え上げられた拍子に靴がかかとから外れて、爪先にぶらさがったから、そのまま無造作に落っことして、俺は足で英次を挟むように抱きつく。ネクタイで縛られた手首、腕の輪っかで英次の首に輪をはめた。どこかに行っちゃいそうになっても逃さない首輪。
「英次たちの歓迎会と場所近いとこにしてもらったんだ」
「……」
「そしたら、阻止できるじゃん」
「阻止?」
俺のほうがもっと怖いよ。英次は、ノンケだもん。いつか女の人のとこに戻るかもしれないって、小さな不安はずっとある。
「英次」
だから、この首輪で英次のことずっと捕まえていられたらいいのに。そんな願いを込めて、首に巻きついて、足で腰にしがみついた。
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