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第57話 突然の訪問者
「突然、お邪魔してすみません。僕は藤志乃凪君と同じ大学の声楽科に通っている、三嶋陸(みしまりく)と申します」
武士? って、思った。そのくらい、同じ歳だとは思えない、しっかりとした自己紹介だった。
これから英次とプールデートってはしゃいでた。今から出発! と思った時、インターホンが鳴り、画面を開けば、このマンションの正面エントランスにセレブ三嶋が立っていた。
もちろん、プールは急遽中止だ。すごく行きたかったけど、だって、仕方ねぇじゃん。こんな神妙な顔でお話しがあります、なんて言われたら。
「すみません。お出かけされるところだったのに」
「いや」
めっちゃ英次が警戒してた。きっと変なこと考えてるだろ。ほら、眉間の皺がめっちゃすごい。これ、一円玉じゃなくて、百円でもなくて、五百円玉だって挟めるんじゃね? ってくらい深くてきつい皺を寄せて、目の前で正座をしている三嶋を睨みつけている。すげぇ、真剣な顔。といっても三嶋はいつだってあんまり表情を崩さないから、いつもと大差ないんだけどさ。
「凪」
「はっ、はい!」
声が、ものすごく怖いんですけど。そんな俺のことまで睨まなくてもいいだろ。別に三嶋とは何もないし。っていうか、知り合いってだけ、この前のダンスの特別カリキュラムをなんでか突然見学したいっていって、うちの班に混ざっただけの仲だ。きっとあのカリキュラムがなかったら、大学内ですれ違っても挨拶ひとつ交わさなかったと思う。というよりも、今だって、別にそんなに親しいわけじゃなくて、話したことはあるけれど、俺も、たぶん三嶋も人見知りだから、押田たちみたいに軽いノリで突撃なんてできそうもない。
ほら、実際、今どっちもぎくしゃくしてんじゃん。
「……」
住所とか教えてないし。三嶋とは何もないってば。
無言の圧と無音で問いただす目付きに慌てて首を横に振った。
「それで? うちの、凪に何か?」
そこ! うちの、ってとこ! そんなに強調しなくてもいいから。そんなことしなくても俺は「うちの」だから!
「あ、あのさ、三嶋、どうかした? なんか、あった? 今、夏休みだけど、課題のこと? っつうか、なんで、うち知ってんの? 押田が?」
「いや、俺は声楽だから、藤志乃に課題のことで聞きたいことはない。住所は、そうだ。押田に教えてもらった。どうしても藤志乃に会って話したいことがあるんだって頼んで」
会って話したいことってなんだよ! そう、世の中の男子が同性愛に目覚めるとは思えない。そして、男子を自分がそこまで魅了できるとも思ってない。
それに、どうしてうちの住所を教えちゃうんだよ! 押田のバカ。
「じゃ、えっと」
「藤志乃さん」
はい。そう答えた。そしたら、三嶋が俺じゃないほうの藤志乃、英次のほうを真っ直ぐに見つめる。俺はポカンと口を開けて凛々しくキリッと引き締まった三嶋の横顔を眺めた。英次は、完全に俺のことだろうと、飄々とした三嶋を威嚇するように睨み付けて。
「俺を――」
「すまないが、うちの凪は」
甥っ子のことを守る保護者っていう権限を振りかざそうとした時だった。
「俺を、モデルにしてください」
「やれな、えっ?」
ひょえっ? って、俺はあまりにびっくりして胸のうちだけで叫ぶくらい。
「俺を、モデルにしてください」
二度、同じことを言われて、二度、胸のうちだけで「ひょえええっ!」って叫んでいた。
びっくりしすぎると声って出すのすら忘れるんだなって、初めて知った。だって、驚くだろ。セレブ科って言われてるんだぞ? 声楽科ってボイストレーニングにバレーの経験、日舞だってやってて、ピアノだって全員見事な腕前だって聞いた。そんな科にいて、あんなダンス踊って、こんだけ顔もよくて、声楽科でも成績優秀な三嶋がなんか、マジで血迷ってるんだ。驚かないわけがない。
ダンスのカリキュラムで俺たちの班を見学するよりももっと意味不明すぎて、声なんて出せない。
「えっと……三嶋君だっけ?」
「はい。三嶋陸と申します。今日は藤志乃さんにお願いしたいことがあって、無礼と承知で参りました」
「……えっと、声楽、だって?」
そう、声楽科。あそこで成績上位の三嶋はきっと世界で活躍するオペラ歌手にでも、ミュージカルにだって出演できる。ブロードウエイで踊ることも歌うことも、そう難しい夢じゃないと思う。
そんな三嶋が持っている夢が「モデル」になることだったなんて。
「藤志乃さんは芸能プロダクションを作った方で、数多くのモデルを世に送り出した方です」
「あ、ありがとう」
「お願いです。僕をモデルとして育ててはいただけないでしょうか」
「えっと」
英次が珍しく困ってた。
「俺はもうその業界からは身を引いてる。君だったら、モデルになりたいと面接に応募すればきっとすぐになれると思うが?」
顔、かっこいいし、歌もダンスも上手いんだ。モデルでも俳優でもなんでもできそう。唯一できないとしたらお笑い芸人くらい? あ、でもこんだけカッコよくて無口なクールキャラっぽいのに、実際口を開いたら駄洒落連発とか……想像しただけでも、戸惑うな。
「それじゃダメなんです」
「……」
三嶋の声は透き通った水みたいに静かに部屋に満ちていく。
「貴方にプロデュースしてもらいたいんです」
澄んだ声が切実に訴えるのを英次は薄っすらと口を開けて聞きながら、静かに、黒く鋭い瞳を大きく見開いた。
「びっくりした……三嶋って、そういうの興味なさそうな奴だと思ってた」
とりあえずその気持ちはわかったからって、英次が一旦帰した。前の仕事、社長をしていた時だったら、役に立てたかもしれない。でも、今、もうその業界にいない自分には何もしてやれないからって話した。三嶋はそれでも諦めないと、資金ならどうにかできるからって。
家業は継がなくていいから、だから声楽科にも行けてる。やりたいことがあるのならやってみたらいいと言われている。資金が必要なら莫大すぎなければ出すことだって可能だと、そう言われても英次は揺るがなかった。返す当てもないのに資金など援助したもらうわけには行かないと突っぱねた。それなのに。
――俺は三嶋陸じゃないものになりたいんです。
その一言に瞳を輝かせた。
「……英次?」
「……」
「英次?」
ハッとして俺を見上げてる。プール、なんて行けそうもない。もう三嶋が帰ってから電車に乗ってプールに行ったって、少し泳いだらもう夕方だったし。それに。
「あぁ、ごめん。なぁ、凪、あの三嶋とはどこで知り合ったんだ?」
「……この前のダンスので、なんか急に見学したいって、うち芸術部で、あいつは音楽部だから交流どころか接点もなかったんだけど、なんか……来た」
「そうか。ダンス……」
ダンス、すげぇ上手かった。見惚れるくらいに上手くて、人の手足があんなに綺麗に華麗に動くなんて知らなかった。感動するくらいにカッコよかった。
「でも、あんま、よくわかんねぇ。その時にちょっと話しただけだから」
本当によくは知らないんだ。資金は心配するなって言ってたけど、あいつの家が何をしているのかさえ知らない。でも、ひとつだけ英次に隠し事をした。
「……そうか」
ひとつだけ、あいつが踊ってる動画を持ってる。カメラをどこに設置するのかを確認しようとスマホで撮影したから。
「うん」
教えなかったけど。
英次があのダンスを見て魅了されたらイヤだから、俺はそのことを隠してしまった。
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