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第58話 チクチク、チクリ
夏休み前日って、こっちの音楽部のほうでもやっぱり浮かれるんだな。もっと、こう「セレブ」な感じで、上品にしてるのかと思った。廊下のあっちこっちから聞こえてくる音楽もクラシックってわけじゃなくて、もちろん、そういうのもあるんだけど、ロックだったりポップスだったり。あ、どっかからレゲエが聞こえる。夏らしいのんびりまったりとしたリズムに、こっちの歩調もまったりしそうになる。
って、俺は文句を言いに、音楽部の棟へ来たんだった。
「あの、三嶋って、いる?」
「三嶋?」
ちょうど声楽科の学生が使ってるロッカーのところで出くわした奴に声をかける。
「おーい! みしまぁ」
声楽科のやつだからって、こういう時に声高らかってわけじゃないんだなぁって、ぼんやりと思っていた。
少しして教室から現れた三嶋は驚きもせず、無言でどこかに歩き出す。俺も、ここじゃ話しづらいと思ったから、不貞腐れながらも後をついて歩いた。
建物自体は同じ作りのはずなのに、どうしてだろう、雰囲気が違ってる。立っている位置が違うからなのか、入ってくる日差しがどことなく違う。こっちの音楽部のほうが奥にあるから? 窓から見える木の陰も濃くて、緑も濃くて、あと、匂いが違った。楽器の匂い? なんだろう、仄かにだけれど、少し変わった匂いがする。
「昨日は突然悪かった」
「……」
ホントだよ。普通、家まで押しかけに来ないだろ。そう無言で睨みつけてしまった。
「押田が、たぶん、藤志乃、ってどっちだかわからなくなるか。藤志乃凪は叔父である藤志乃さんを紹介したがらないって言ってたから」
そうだけどさ。でも、だからって、普通、なんて、その単語を俺が使うのもおかしいのか。
「会社が大変なことになって、それでようやく新しい仕事を見つけて新しい生活が始まったタイミングで、前の仕事のことで話をしたいって言っても、家族の藤志乃凪は良い顔をしないと言われた」
「しねぇよ」
「……そうだな」
英次は新しい仕事楽しそうなんだ。朝起きて会社行って、残業があるけど夜には帰る。帰って来てのんびりテレビ見て、風呂入って寝る。そんな生活に不満そうな顔なんてしたことないのに。なのに、昨日、三嶋が来て、一瞬だけど、英次が違ってた。
お前の言葉に、ハッとしてた。
「なんで、うちの、叔父さんに言うんだよ」
「……」
「お前、顔もいいんだし、なんでもできるし、声楽科なんて通ってるんだし。英次だって、俺の叔父さんだって、充分、モデルになる素質があるって言ってただろっ」
だから、英次の知らないところで、英次の関係ないところでモデルになればいいじゃんか。
知らない。英次があの場所に戻りたいのかどうか、俺は知らない。あんな形で退いた場所をどう思っているのか、英次から話したことがないから、俺も聞いていない。戻りたいのかどうかも。
「お前も知ってるだろ? 声楽科」
「……え?」
「うちもそう。俺もボイスレッスンから楽器ダンス、全部こなしてきた。まだ何も知らない子どもの頃から」
それが普通の毎日だったから。食事をするのと、風呂に入るのと、歌を歌う、歌に必要な技術知識を身につけるのは、全て同等なことだった。
「友達の家に遊びに行って、テレビを見たんだ」
「は? え? お前ンち、テレビねぇの?」
あぁ、と答えてフワリと笑う。ちょっとしたカルチャーショックだった。テレビ見ないとかありえるのか? そんなの昭和以前とかのことなんじゃってびっくりしてしまう。
「そして、世界はもっと広いと思った。そして、俺は三嶋陸以外のものになりたかった」
「はぁ……」
話、わけわかんねぇよ。なんで、テレビから、そんなところにまで飛躍するんだ。そんな疑問が顔面いっぱいに書かれていたのか、三嶋が俺を見て小さく笑った。
「わからないよな。藤志乃凪は自分に素直に生きてる気がする」
「!」
「でも、あの人、藤志乃さんはそうじゃない気がした」
正直に生きてるって言われて、三嶋の鋭い眼差しは全部を透かして見えてるんじゃないかって、思った。だって、本当に自分の想いに素直に従って生きていたから。そして、ドキッとした。英次はそうじゃない気がするって言われて、心臓が飛び上がった。きっと、甥っ子である俺への気持ちを隠してっていう意味での、素直じゃない、なんだろうけど、なぜかそれだけじゃない気がしたんだ。
だって、今の英次は楽しそう。
それならなんで、あんな華やかな世界に?
ずっと、小さく、でも胸にたしかにあった疑問が、三嶋の言葉に連れられて持ち上がってくる。意識できる疑問のところにまで、上がってきてしまう。
あんな激務をどうして? 好きだから、やりたいことだから、こなしてたんだろ? それなのに、一度だって戻りたそうにしなかった。新しい生活に笑顔だった。
「前に、ファッション誌のインタビューを読んだんだ」
英次は、どうしてあんな大変な仕事をしていたんだろう。会社の上を自宅にして、通勤時間さえ削って。
「今の自分じゃない自分になれる、その手伝いをしているって」
「……」
「その一言を俺は信頼したんだ」
今の自分じゃない自分って。
「モデルにも俳優にも、タレントにだってなれるかもしれない。でも、そんな時、きっと誰もが俺の家の名前を活用すると思う。親も兄弟もそれなりの著名人。コネだってあるだろうし、きっと俺の経歴は良いアシストになる」
英次もそう言ってた。それだけの実力、家があるんだ。自分の力は必要ないだろうと。
「でも、俺は家も経歴もない、俺そのままでなりたいんだ」
「……」
「それをきっと藤志乃さんは理解してくれる。俺の家のこととか悪用しないで、素の俺を使ってくれる」
そんなの……わからないだろって、だから、英次に頼らないで、他んところへ行ってくれって言えたらいいのに。
「藤志乃凪のこと、利用するみたいにして悪かった。あのダンスカリキュラムの時、相談したかったんだけど、できなかったんだ。友達を利用するようで気が引けた」
今、そんなことを言われて俺の気が引けたじゃん。他所に行って欲しいなんて思って、友達甲斐のない奴ってなるじゃん。
「ダメもとではあったんだ」
三嶋のダンスはすごかった。きっと、こいつがあのステージに立って、最先端の服を着て歩いたら、眩しいほどのフラッシュの雨が降る。
「あの記事を読んだのは俺が高校生の頃だったし。でも、この人にプロデュースしてもらえたら最高だなって思ったんだ」
胸がチクチクする。藤志乃って、そうたくさんある苗字じゃない。自分が衝撃を受けた人と同じ苗字の奴が芸術部のほうにいるって思って、少し注目してた。そしたら、テレビニュースにもなった芸能プロダクションの藤志乃社長のことを知って、その血縁者が打ちの大学にいるってわかって。
わずかなチャンスだけれど、それでもダンスカリキュラムに参加させてもらった、って言って笑ってる。
「だから、お前にダンス見てもらうとき、ちょっと緊張したよ」
「……」
「夢の一歩だったりして、と、思ったんだ」
三嶋の笑顔に、胸のところにある良心がチクリと痛んだ。
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