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第62話 胸の奥の

 英次はきっと俺のしたいようにしたらいいって言う気がした。胸の内でどう思うのかは別にして、きっと、一年くらいわけないって笑う。  俺がどうしたいか、なんだと思う。  たった一年でこの気持ちが薄れるわけないし、別に飛行機で何時間か飛べば会える。海なんて越えてしまえばいいだけ。  俺は……舞台の勉強を――。 「ただいま、今日は暑かったけど、お前、ちゃんと飯食ったか? 寝ぼすけ」  帰って来てすぐに俺を想って声をかけてくれる。 「……おかえり。仕事、お疲れ様」 「何時に起きたんだ? ぐーすかよく寝てたな。……このでかい花は?」  びっくりするよな。英次ですら抱えるほど大きな花束なんて、いきなりなんでって思うよ。俺も花瓶なんてないから、瀬古さんが帰った後に買いに出かけたんだよ。コップじゃ格好つかないし、それにこれだけの大きさのはコップじゃまかないきれない。 「英次」 「んー……? すげぇなこの花。何の花?」 「そういう花束、前の仕事だったら何度ももらったことある?」  少し楽しそうに花を間近で眺めてる英次を見てると、やっぱ戻りたいのかなって思えてくる。でも、贖罪って、瀬古さんが言ったんだ。英次は何の罪の意識があるんだろうって。 「なぁ、英次は、前の仕事、なんで始めたの?」 「……」  そんなにびっくりするようなこと? なのか? 目を丸くして、なんて答えたらいいのかすごく困惑した顔。英次のこんなにうろたえた表情を俺は初めて見た。その様子が、今した質問は、してはいけないものだったんだって教えてくれる。 「なんでって……そりゃ」  知ってる。追い出されたんだってわかってる。でもさ、英次のことを俺は過大評価とかじゃなくて、本当にすごいって思うし、瀬古さんもそう思ってると思うんだ。だから、前に一緒に向こうで仕事しないかって言ったんだと思う。あのさ、戻りたければ戻れると、思うんだ。思うけど、心のどこかに小さな俺がいて「戻ってほしくない」って、すっげぇ小さなことをぶつくさ言ってる。一緒にいたい。一緒にいられるんだから、それでいいじゃんって。ものすごく小さくて、情けないって思う。 「今日、瀬古さんが来た。その花束、瀬古さんから。あと、引っ越し祝いってワインもらった」 「瀬古?」  英次の表情が変わった。ただそれだけで、あぁ、やっぱり英次の奥に何かあるんだって思った。瀬古さんの言っていた「贖罪」がそこに、奥のどこかに、たぶんある。  一瞬、英次がグラリと揺れたような気がした。  いつもの英次はもっと強い。押田に何を言われてもビクともしない強さがあった。でも、今の英次は指先でツンと押しただけでも倒れそうな気がする。 「戻りたい、って思ったり、する?」 「……」 「三嶋、モデルになりたいって」  ねぇ、英次の中に何があんの? 俺を好きになったから? だから、贖罪? 何に? 世間に? もしも、そうだとして、なんでそれがモデル事務所? 「瀬古、何か言ってたか?」  英次は自分以外のものになりたかったんだって言ってたよ。 「引っ越しおめでとうって」 「……」 「それと」  喉のところに大きなしこりがある感じ。言い出しにくくて、ツバと一緒にでかかった言葉を飲み込むことも難しくて、そして、吐き出すには少し勇気がいる。 「俺、スカウトされた」 「……え?」 「この前の舞台の、すごい高評価だったんだ。で、それを見た人が海外で勉強しないかって。そんで、その人が瀬古さんの知り合いで、断るのはもったいないって」 「……断るのか?」  断って欲しい? 断って、欲しくない? 英次は? 三嶋を育てたい? あの時、瞳をたしかに輝かせたように見えたのはなんで? 今の生活に満足してる? 「ス、カウトもさぁ、タイミング、悪いよな」 「……」 「英次とこうなる前だったら、こんなに」 「断るのか?」 「そもそも、俺、あそこで勉強してたのって、英次の役に立ちたかったんだ。だから、もうその必要がなくなった今じゃ、そんなにっ」  そんなに必死になって勉強しなくてもいいことだ。 「っ」  もう必要ないこと。英次のそばにいるのが一番嬉しいし、楽しいし、望んでたこと。 「だから、断ろうかなって思う。そこまで」  そうだろ? こっちが、欲しかったものだろ? 「そこまでしなくてもいいかなぁって思ってさ」  だから、俺は海外には行かないつもりだよ。そう言った 「あ、英次、冷しゃぶ、何かける? ポン酢?」 「……あぁ」 「あ、そだ。瀬古さんからもらったワイン開ける? なんかすっごい高いんだって、大人の味って言ってた」 「……そうか」 「ワインなんて、俺飲めっかなぁ。高いと美味いの?」 「……どうだろうな。でもあの人の見立てなら、美味いやつだろ」 「そっかぁ」  英次と食べる飯はすごく美味い。いくらでも食べられそうなくらい。今も美味くて、肉柔らかいし。野菜いっぱい食べられるし。 「それがさ! 大人のたしなみっつうか、大人の味とか言っててさ。でも、あの人、びっくりしたこと言うんだ。大人のオモチャ、なんかと迷ったとか。俺、びっくりしすぎて、お茶吹き出したっつうの」  英次が口を開く度に、慌てて話し始めてしまう。海外に行ったほうがいいんじゃないかって言われたくない。だって、もう顔に描いてある。  いいんだ。俺は英次といたい。それが一番欲しかったものだから。 「めっちゃむせた」  笑って、そんでまた食べる。喉のところに何かつっかえてる気がして、噛んで飲み込む度にしかめっ面になった。だって、なんか今日の夕飯はすごく苦しかったから。 「ごちそうさまっ! 英次のも片付けとく。休んでて。今朝、普通に寝すごした俺が洗うから」  カチャカチャと食器の立てる音がとても大きく聞こえた。  英次の胸の奥には何があんの? その奥の狭くて手が届かないところには一体何を抱えてるの? 「ほら、英次は風呂、入ってこいって」  恋人の俺も、それはやっぱ見ちゃいけないの?

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