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第64話 ひとの肌
血が繋がってるんだから、どんなに遠くても、どんなに嫌われても、この繋がりは絶えない。切れてしまうことはない。そう思って嬉しかったんだ。
たったひとりの家族、その人を好きになることは、血の繋がりが他人よりも深くて濃いから「ダメ」って、皆に言われることだった。
でも、その「血」があるから俺は諦めずにいられたんだ。絶対に切れることはないってわかっていたから。この「血」の繋がりが嬉しいとさえ思ってた。
――こぇよ。
前に英次にそう言われた。俺はあの時よりも今、その言葉に心底頷ける。
片想いだった時は真っ直ぐ前だけ、英次だけを追いかけてたから気が楽だった。両想いになったら、温かくて柔らかくて深くて濃くて、英次のことが全部身体に染み込んでるから、離れるのすら寂しく感じられた。自分の中に英次がいるから、離れたら、ぽっかりと穴が空きそうで怖かった。
「ただいま。凪?」
馬鹿みたいに自分ひとりで突っ走ってた頃はこんな不安感じなかったよ。
「凪? どうし……」
ひとり暮らしの時は何してたっけ? きっと英次のことばっか考えながら、ひとりで適当してたよ。
「駅前でもらってきた。英会話のパンフレット」
「……」
「でも、押田がスクール紹介してくれるって。そしたら特典が俺にも押田にもあるんだ。教材費タダとか、押田だったらキャッシュバックって言ってた」
今は、ふたり暮らしだからさ、けっこう忙しいんだ。適当できないじゃん。英次も食べるから夕飯とか頑張りたいし、掃除機もかけておきたいし。もう、俺ら、両想いなんだ。血も繋がって、気持ちも身体も繋がって、そんで一年離れるくらいで、俺の中から英次は抜けてなくなることなんてない。英次の中にある俺だってそんくらいじゃ放れない。遠くになんていかない。
英次が英会話スクールのパンフレットを手に取り、じっと見つめてる。
「俺、向こうで勉強したい」
そしてゆっくりと俺へ視線を移した。
「最初、英次の役に立てればって、あそこで勉強したんだ。でも、舞台のこと、何かを表現することを勉強するのは楽しかった。すっげぇ、楽しかった」
この前のダンスパフォーマンスの演出とか考えるのだってワクワクした。アイデアがあっちからもこっちからも、頭ン中に沸いてきて、降って来て、すごく騒がしくて賑やかで、ドキドキした。
「もっと、勉強して、みたい」
英次のことは世界一好きなんだ。世界一、誰よりも一緒にいたい。ずっとそばにいたいって、本当に思ってる。思ってるけど、自分のしたいこともあって、俺は今、……あぁ、そっか。
俺は英次よりも何かを優先させることに罪悪感っていうか、英次のことうらぎったような、そんな気がしたんだ。
「……よかったよ」
「え?」
ふわりと頭の上に乗っかる手は温かくて大きくて、ずっと恋焦がれてた叔父の手だった。
「お前が、自分の本当にしたいことを見つけられて」
「……」
「誰かのためとか、そういうじゃなく、自分のために選んだ、やりたいって思えたことを見つけられて、よかったよ」
「……」
くしゃっと、俺の髪を掻き混ぜる優しい手。
「英次……」
その手が頭を、耳を覆うように撫でて、そして、細く猫っ毛な俺の髪をひと束指先に絡める。優しいけれど、触れられる側はゾクゾクする、恋人の手だ。
家族で、恋人だから、俺は、きっと世界中の誰よりもこの人の近くに行ってもいいと思う。ダメでも血っていう、英次の中を駆け巡ってるものと同じものを持ってるって、ゴリ押しして、ここに居座る。
ここ、英次の懐で、英次の腕でぎゅっと抱き締めてもらえる一番好きな居場所。
「英次は?」
恋人の俺には言ってよ。そんでもって、たったひとりだけの家族にはそれを聞くことが許されてると思う。
「英次は、前の仕事、したいことじゃなかったの? 今は? 英次の一番したいことは、何?」
「……それは」
「これ……」
俺は俺の好きなことをする。それで切れる繋がりじゃないし、そんなんで切れるのなら、もう最初から英次のことを好きになんてなってない。だから、ポケットに入れてたスマホを取り出した。
「三嶋のダンス」
「……」
俺が見惚れた、才能のある人っていうのを実感した瞬間。三嶋のダンスを見て、本当に感動するくらい、ぽかんって、マジでなったんだ。すごく綺麗で魅力的だった。
「実際に目の前で見たらもっとすごかった」
小さなスマホ画面じゃ三嶋のすごさは全部伝えきれないかもしれない。長い手足が優雅に舞う様子はこの掌に収まるような小さいところに閉じ込めきれないけど。
「見せたくなかった」
顔を上げた英次の瞳に俺が映ってた。真っ直ぐに好きな人を見つめる俺が。
「英次、前の仕事大変そうだった。毎日飛び回って、家になんて帰る暇もないから事務所の上に住んで。住んでるっつうか寝るだけの空間で。飯だって何食ってんのって心配だった。今の英次見てるとさっ」
「楽しそう、だったか?」
頬を包み込む英次の手。親指だけで目元をなぞられて、くすぐったくて、気持ちイイ。
「うん。今の英次のほうが楽しそう」
「楽しいよ」
すごく、楽しいよ、毎日が。そう低く色っぽい声が告げた。それを聞いて、俺がどんだけ嬉しかったか、目の前いる英次に全部丸ごと伝えられたらいいのに。
「でも、そんなふうに楽しむのはダメだと思ってた」
贖罪ってやつ? なんで、英次は何も悪いことなんてしてねぇじゃん。俺らの好きはそう認めてもらえるものじゃないかもしれないけど、でも、瀬古さんは認めてる。ひとりいる。世界中じゃないんだ。否定ばかりじゃない。なのに。
「前の仕事をしたかったのは、ずっと前からだ。瀬古さんがいたから、色々教わりながら、あの業界で経験値を上げて、自分の事務所をかまえた」
英次の掌がさらりと頬を撫でた。
「一度だけ、お前の……」
そして、俺の頬に揺れる英次の掌が緊張したのがわかる。指先がほんの少し震えてる。
「お前の両親、英一たちがいなければいいのにって、思ったことがある」
「……」
「一度だけ。お前に手を伸ばしかけたことがあった。無邪気に触れてくるお前によからぬことを思って、必死に堪えて、でも、ほんの少しだけ、心の片隅で、あぁ兄貴がいなかったら、この願望は……ってな」
少し震えて、そして、指先から体温が消えていく。冷たくなる指先は温かい人肌に触れてはいけないって思ったのか、慌てて放れようとする。
「それから一ヶ月も経たないうちに、英一たちが亡くなった」
俺は放れようとする手を慌てて掴んで、自分の頬に押しつけた。温かくて柔らかい頬に押し付けて、人肌を、体温を、その指先に染み込ませた。
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