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第65話 懺悔と幸福
無邪気に笑いかけてくる甥っ子を好きになった自分を覆い隠したかった。別の自分になりたかった。甥っ子を可愛がるただの「叔父」になれたらといつも思っていた。
――モデルでも女優でも、彼らは演じてるんだ。あ、僕、この前、彼女に会ったよ。実際の彼女って恥ずかしがり屋でさ。全然違うよね。
英一の親友の瀬古さんがそう言って指差した画面には、人気ドラマが映っていた。大勢に囲まれてとても楽しそうに笑っている、女優に転身したばかりのモデル。その当時、海外でも仕事をし始めていた瀬古さんのクライアントのひとりだった。
驚くほど画面にいる彼女と、瀬古さんが話してくれる彼女が違っていて驚いたのを覚えてる。
他にも、大人気のアイドルだけれど、プライベートではコアなアイドルオタクだったり、ファッションリーダーと言われているモデルが実は、ファッションの専門学校ではちっとも評価されてない劣等生だったり。
――面白いだろ? モデルでもタレントでも俳優でも、彼らは完璧すぎて、どこか人離れして見える。美貌も才能もあって、センスもあって。でも、人間だ。普通に悩んで苦しんで、落ち込んだりもする普通の人間。
そんな彼らをなりたいものに変身させる仕事。魔法使いみたいだろう? なんて笑っていたけれど、俺は笑えなかった。
ホッとしたんだ。
誰でもそういう悩みがあるのかもしれないって思ったら、安心した。可愛い甥っ子なのに、大事にしたいのに、自分の抱えている感情はその可愛い甥っ子を穢す。そう思っていた。ちゃんと甥っ子にとっての良い叔父になりたいと。
そうやってモデル事務所の社長にまでなった。必死に仕事して、寝るのも飯を食うのも二の次にして、自分と同じ願いを持っている人の手伝いをした。
でも、夏の暑い日、なりたい「叔父」の顔が欲求に剥ぎ取られて、一瞬だけ本当の自分が顔を覗かせた。
――あ! 英次! 来てたの? なら、もっと早く帰ってくればよかった。
無邪気にそう笑う甥っ子を見て、衝動に駆られた。
触ってしまいたい。そう思った。
指先がジリジリと熱に焼けていく感じ。灼熱の太陽の下で溶けていくみたいに、理性が溶けて指を、手を、手首を伝ってポトリと落ちる。
触って、この手に掴んで抱き締めてしまいたいって、トロリと溶けてまとわりつく理性で汚れた指先を甥っ子に伸ばしかける。
――英次?
何も知らない甥っ子の表情に慌てて、「叔父」を繕った。急いで覆い隠したけれど、でも、その時、胸の奥深く、腹の辺りでとても小さくだけれど、呟く自分の声が聞こえた。
いなければいいのに。
そうたしかに呟いた。
同性で、しかもまだ子どもの甥っ子を相手に本気で欲情する自分を世界中が非難すると思う。でもそんなのは無視できる。けれど、甥っ子にとっての親で、自分にとっての兄の否定は何よりも頑なで抗えない気がした。世界の誰に言われるよりも、家族からの否定はどんなものよりも強くて痛いものだけれど、否定されないわけがなくて。それならいいっそ。
「そう思ってからしばらくして、本当に英一が亡くなった」
「でも、そんなん」
「偶然だろうが、なんだろうが、俺はあの時たしかにそれを思ったんだ。大事な甥っ子の親なのに、たったひとりの兄弟なのに、一瞬だろうと考えたのは本当だ」
それが英次の抱えていた贖罪?
「最低なことを考えた最低な弟で、最悪な叔父だ」
「……」
「そんなん思ったって意味ないのわかってて、何度も、何度も思ったよ」
ろくに寝もしないで、飯だって餌と変わりない雑なものにして、家、居場所を持たずにただ仕事をしてた。それが一番自分には相応しいと。
「あの時、あんなことを思わなかったら兄貴は死ななかったかもしれない。そう何度も考えた。お前のことを世界一不幸にする想い、だけじゃなくて、すでにもう、世界一不幸にしたのかもしれないって」
なんだよ、それ。そんな顔を好きな人がしたら、俺の心臓が潰れる。
「俺が、凪の親を、俺の兄を」
「なぁ、英次」
潰れそうなくらい痛い心臓の上にぎゅっと握って捕まえていた英次の手を押しつける。トクントクンと自分の鼓動が英次の掌に振動するようにぎゅっとくっつけて。
「ありがと」
「……は? 凪? 何を」
「そんなこと思わなかったら親父は……って後悔はしても、俺のこと、好きになったのは後悔しないでいてくれた」
そこで、この好きを悔やまれたら悲しいから。どんなに周りに否定されたって別にいいよ。でも、英次に否定されたら、めちゃくちゃ悲しくて、きっと心臓だけじゃなくて俺がまるごとぺしゃんこになる。
「俺、親父たちが生きてる時から英次のこと好きだったよ。親父の弟だからって、この好きは止められなかった」
「凪……」
「ずっと、ずーっと、英次が好きだった」
もう何度もそれを伝えたけれど、きっと今一番、その「ずっと」が英次に届けられる気がした。
俺を好きになったことじゃなくて、親父たちを邪魔に思った瞬間をずっと悔いていた。罪悪感で自分のことボロボロになるまで削って、ひどくして、それって、絶対にしんどかったと思う。
俺のほうが英次のこと、すっごい好きだと思ってた。
好きの大きさを何か使って測れるのなら、絶対に俺のほうが大きくて深いと思ってた。でも、英次はずっと、親父たちが天国に行ってからずっと、きつくてしんどい思いだけをしてきた。自分が願ったことと同じことを願う人を手伝って、助けて、自分のことなんて蔑ろで。眠くても、腹がめちゃくちゃ空いても、休める場所が欲しくても、全部、自分の欲しいものは無視し続けた。
それでも、俺のことは好きでいてくれた。
「よかった。英次がその罰ゲームみたいなの、止めてくれて」
「罰ゲームって、お前な」
だってそうじゃん。親父たちをそんな言葉で死なせられるわけないのに。
「でも、なんで?」
「……言われたんだ」
あ、少しだけ、英次の指先に体温が戻ってきた気がする。ずっと俺の胸に重ねた指先がじんわりと熱を帯びたような。
「瀬古さんに」
「瀬古、さん?」
「あぁ、お前が駅前で待っててくれた日」
英次は面接で、それが終わった後、瀬古さんと少し会ってたっけ。俺が青と紫のネクタイを買ってた時だ。
「罪の意識だなんて、どうしてそう大袈裟に考えるんだ。もっと呑気にしてればいいのに」
あのふわっとして、のんびりとマイペースな話し方で。
「もし、そんなに罪悪感にさいなまれるのなら、可愛い甥っ子を世界一幸せにしてやればいいじゃないかって」
「……」
「言われたんだ」
自分の胸のうちに零した呟きが不幸にさせたのなら、その逆に守って、大事にして、世界一の幸せ者にしてやればいい。それこそ、やるべきことだと。
「かなり、迷ったがな」
本当に自分でいいのか? 自分があの細く白い手を取っていいのかって? そう思った?
「でも、こうも思った。どんな非難でも、否定でも、全部を自分へと突き刺してもらってかまわない」
「……」
「この手を、取れるなら、なんでもできる、そう思った」
英次の掌が温かかった。熱いくらい。
「英次、あのさ……」
この手を掴んでいいのなら、指を絡めて引き寄せていいのなら、俺もね、なんでもするって、ずっと思ってたよ。
「俺、最高に幸せだ。世界一、一番幸せだよ」
「……そうか」
英次だけが俺をこんなに幸せにしてくれるんだって、ねぇ、知ってた?
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