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ケモ耳SS 1 オチムシャ、ハッピークリスマス
こっちの冬は空気がやたらと冷たい。風が頬に当たると切りつけられたような痛みに変わるほどの冷たさ。その寒さの中、ポケットの中でぎゅっと握り締めた小さな包みに自然と口元が緩んだ。
「あれ? 凪、今日はうちの店寄ってかないの?」
「あーうん、ごめん」
いつも寄って帰る日系のローカルスーパー。ここだとちょっと割高なんだけど、日本の食材がそのまま売ってるからよく寄って帰るんだ。緑茶に砂糖は入ってないし、どぎつい色のお菓子もない。代わりに納豆があって、ガキの頃から食べてるお菓子が売っている。
「今日は大事な人が来るんだ。だから、早く帰る」
そう言って、今日一日、どうしても緩む口元を隠そうとぐるぐる巻きのマフラーの中に顔を隠した。
英次がこっちに遊びに来る。クリスマスで、きっと一年で一番高い時期だろうから、いいよ、クリスマスじゃなくたってって言ったんだ。たぶん、オフシーズンの時の倍以上に値段が跳ね上がってるだろ? けど、英次は――。
『飛行機代だけなんだから、跳ね上がったところで、いいよ、別に。お前のところに泊まるんだ。宿泊代はゼロだしな。泊めてくれるんだろ?』
そう言ってクスクス笑う気配。きっと電話の向こうで意地悪な顔して笑ってるんだ。見えないけれど。
電話越しだと耳元で聞こえる大好きな低い声。けど、手を伸ばしても届かないところに、愛しい叔父はいる。
寂しいし、会いたいよ。
でも、好きを伝えられずに我慢していたもどかしさを知っている俺には、好きだと伝え合える今の英次との距離は、そんなに遠くは感じないかな。
「よ、凪、おかえり」
「押田、は? 何その格好」
アパートに戻ると、なんか賑やかだった。押田と俺は同じアパートで暮らしている。もちろん、英次が心配するようなことなんてひとつもない。
皆、演劇関係の勉強をしている奴ばっかりで、俳優を目指してるのもいれば、ダンサーを目指している奴もいるし、裏方スタッフになりたいと勉強している奴もいる。だから、イベントの時はいつもアパート全部がお祭り騒ぎになるんだ。ハロウィンの時なんてものすごかった。特殊メイクを勉強している奴がいい練習になると本気メイクを施すもんだから、アパート丸ごとホラーハウス化してたっけ。
その時も英次はこっちへ来てくれて、やっぱり特殊メイクの奴らに捕まって、体格しっかりしてるし、サムライっぽいと、寄って集って、落武者のメイク施されてたっけ。しかも舞台用のメイク道具だったみたいで、そう簡単には落ちてくれなくてさ。どうしようかと思った。
もうあのまま落武者に添い寝してもらうことになるんじゃないかと本気で不安にかられたんだよ。確実に怖い夢見そうでさ、ちょっとどうしようかと思ったんだ。
「ナギ、オカエリ、オチムシャ、クルノ?」
クルクルとしたブルネットの髪を跳ねさせながら、首を傾げ、押田の影に隠れていた彼女がひょっこりと顔を出した。ほらな、彼女も英次のこと「オチムシャ」って覚えちゃってるし。そのくらい、すごく似合ってた。彼女は、日本文化に興味があるらしく、日本語もできる彼女と押田がくっついたのはこっちに来てから、間も無くのことだった。けっこう真剣に付き合っているみたい。そんなふたりが今、なんでか、猫に、扮してるのか? それ?
「あははは、びっくりしただろ? なんか演舞科の奴らがパーティーの招待状代わりにって猫メイクして来いってさ。ほら、夏に全員アニマルの格好してミュージカルやっただろ?」
「あー、え? それ、全員?」
「俺らはまだまとも。テリーとか、最高にバカだったぜ?」
「うわ、あいつなら、最低な格好してそう」
最高なんだか、最低なんだかって、押田が笑った。
「凪はどーすんの? バー、には」
「あー……」
「行かないか。いつぶりだっけ?」
「……秋」
そこで笑われた。遠恋、しかも海を越えるほどに遠いはずの恋愛だとは思えないくらい、まぁまぁの頻度で会ってるんじゃねぇ? って、笑われて、返す言葉もない。
「宜しく言っといてくれよ」
「あー、うん」
押田は軽く手を振って、彼女と一緒にこれからあの猫メイクのままタクシーに乗るつもりなんだろうか。あれ、顔がわからないから、乗車拒否されそう。かと言って、あれで歩いていくなんてことしないよな。寒いし。
夏にも、秋にも、会えたけど、それでもやっぱ恋しいんだ。
何年越しっていう、片想いが実ったばかりで離れるのはすごく恋しさが募ってしまう。電話で声を聞いても、メールでその日の出来事を語っても、英次の、あのふてぶてしい笑顔に触れられないのは、すごく寂しい。
思ってしまうんだ。
せっかく俺のものにできたのにって。
わがままだよな。自分で決めたことなのに、たかが一年なのに、何年も片想いしてたんだから、たったの一年くらいどうってことないはずなのに。
俺の部屋はアパートの三階。
部屋に戻り、窓から下を見ると、もうすでにクリスマスが待ちきれないと人も街もそわそわしている。
「は? 押田、歩いてくの? マジかよ」
通行人達が押田達に声をかけているのが見えた。
「っぷ」
思わず笑ったら、口元近くの窓ガラスがふわりと白く煙った。
「……」
もうそろそろ来るかな。本当は空港に迎えに行きたかったけど、今日はいつも勉強させてもらってる舞台で裏方のバイトをさせてもらってた。ちゃんと報酬がある仕事として、扱ってもらえたのは嬉しかったけど、けっこうきつくて、足が重くてダルい。でも、素敵だった。
客席で見る舞台は計算されつくした美しさがあっていいけど、舞台裏から見るのは、役者の息遣いを感じられて、感動すらしてしまった。しかも俺の好きな芝居だったから余計にさ。「美女と野獣」は、俺の一番好きな話。
子どもの頃、英次と映画館で観たことがある。もうその時には自覚していた英次への思いを隠しながら、俺はひとりでこっそりとデートのつもりでいたんだ。
どんな見てくれでも想ってくれる美しい人と紡ぐ、愛の物語――なんて、絶対に叶わない恋を血縁者にしていた俺にとっては、最高の夢物語だった。あの野獣の見てくれは、まるで自分の恋心みたいでさ。
苦しくて切なくて、羨ましくて、泣きそうだった。
なんて、今は穏かにできるけれど、ずっと片想いのままだったら、今日の舞台だって袖んところで号泣してたかも。
まだ、来ないのかな。そう思いながら、外へと目を向けたら、一瞬で目に飛び込んできた。
黒髪に外国でだとちょうど馴染む長身、それに、歩き方でもうわかっちゃうんだ。ずっとずっと見つめてきたから。
「英次!」
俺の恋人が、外を歩いているのを見つけた。
英次だ! そう思ったら、いてもたってもいられなくて、慌てて飛び出しそうになって、靴を履いてないことを思い出して、玄関のところに一応敷いたマットの上に放り出してあるブーツを裸足でもかまわず履くと。
「あ、凪!」
「うわっ!」
玄関を開けたところで、隣の部屋に住んでいるジョーンズが立ち塞がった。
「ごめっ、俺、ちょっと外に」
「あー! あのさ! 悪いんだけど、今日、俺ら、パーティーに行くんだぁ。それーでーさぁ、ネクタイーを、借りれ、ないなかぁぁぁって……思って」
「はぁ?」
もう酔っ払ってるのか? 変にだらけた言い方をするジョーンズにあからさまにしかめっ面をして見せた。けど、ここじゃ背の低い俺は女の子と間違われることもしばしばあるくらいだから、誰一人として怖がることもなく、とっつきにくいと疎遠にされることもない。むしろ、からかって、かまわれて、怒鳴っても笑って抱き付かれるばかりだ。
「今、俺、ちょっと、恋人がっ」
「ネクタイ貸して欲しいんだってばぁ」
「あー!もう! わかったよ!」
うっるせぇなって急いで靴をまた脱いで、クローゼットからネクタイを全部持ってくると、そんなにたくさんは入らない、一本でいいと、やたらとのんびり選び出した。
「だから! いいって、全部!」
「んー。これかなぁ? ……それともぉ、こっち?」
どっちでもいいよ。迷うなら両方持って行け。俺は今、下に恋人がいたんだと説明しても聞こえてないのか、まだネクタイを選ぼうとしている。
「んー……」
「おい! ジョーンズ!」
いい加減にしろよ! 早くしないと……って、あれ? 早くしないとって、だって、英次はここに向かってるんだよな? それにしては遅くないか? いくら階段で三階までたって、数分もあれば充分だろ?
でも、まだ英次はここに辿り着いてない。一体、どこへ? 見間違い? いや、俺が英次を見分けられないわけがない。それなら、なんで?
英次はどこに言ったんだ? そう、思って、何かあったのかと不安が横切りかけた時。
「ちょっ! おい!」
廊下に響いたよく知った声。低くて、張りのある、世界一大好きな人の声。
「あ、青のにしようっと。それじゃあね、ハッピークリスマス、ナギ」
英次の声が、今、廊下から聞こえた。
「ハッピークリスマス、トゥー、ユー」
ネクタイをようやく選び終えたジョーンズがさっきとは全く違うハキハキとした口調で、廊下にいる誰かにそう挨拶をした。
俺は、そんなジョーンズを追いかけるように、飛び出して。
「……ぁ」
そこにまるで野獣のような姿となった英次を、見つけた。
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