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(4)少年

山の中腹に、洞穴があった。 それはもう長い事、ここでずっと一人、寝たり起きたり、時折食べたりしていた。 話し相手もなく、最後に自分以外の人の声を聞いたのは、もういつだったのかわからなかった。 自分が生きているのかどうかも。 なぜまだ自分が死なないのかも、わからないままだった。 そこへ、人の声が聞こえた気がした。 気のせいだろうと思った。 あまりに人恋しくて、居もしない人の声が聞こえることは、良くある事だった。 「アリやモグラ、羽虫や鳥のように、地中や空から急に現れる魔物を除けば、そうですね」 落ち着いた、男性の声。 「カワウソみたいなのが、川づたいに下りてきた事もあったな」 その声よりも、明るく優しげな男性の声。 「……あの時は、主人様が冷静さを欠いていて大変でした」 「その話はもういいよ……」 小さく笑うような声。 聞き取りづらいが、会話の合間に低い声の男性が何度か相槌を打っている。 和やかな雰囲気に惹かれて、ふらふらとそちらへ近付くと、そのうちの一人が気付いた。 途端、三人は武器を構えると、神経を研ぎ澄ます。 こちらを探ろうとする気配に、なぜか酷く裏切られたような気がして、心からどろりと闇が溢れ落ちた。 地に落ちたそれは滲んで広がり、付近にいた動物へ取り憑くように染み込むと、動物は魔物へと姿を変える。 一体、また一体と森の中へ魔物の巨体が立ち上がる。 「おい……何体出て来るんだ……?」 カースの声が掠れている。 「最初の気配は、魔物のものではありませんでしたが……」 ロッソにもじわりと冷や汗が滲んでいた。 「あれを見て!」 リンデルの指した先には、草陰から顔を出した野兎が、足元からどろりとした闇に囚われもがいていた。 それが完全に闇に包まれると、ボコボコと歪にその体が盛り上がる。 ただの野兎が見る間に凶暴な体躯へと変貌し、異様な気配を放ち出すまでを、三人は呆然と眺めた。 「話には聞いたが……聞くと見るんじゃ違うな……」 カースの言葉に、ロッソも 「この近くに、その者がいると言う事ですか……」 と気配を探る。 「さっきの気配がそうじゃないかな」 リンデルがさらりと答えてから、その声に後悔を滲ませる。 「……多分、俺達が怖がらせてしまったんだ」 魔物はまだ周囲のあちこちから、一体、また一体とその巨体を覗かせている。 兎、鳥、アリ……とその種類は様々だ。 波紋が広がるように発生する魔物達の姿は、その発生源がこの辺りだった事を窺わせた。 間近で魔物化した兎の魔物が飛びかかってくるのを、リンデルが一瞬眉を寄せて斬り伏せる。 魔物と化す前の姿を見てしまったからだろうか。 「それよりこいつらどうすんだよ。全部倒せるのか?」 カースの低く呻くような声に、リンデルは答える。 「さっきの気配を追う。ただし、怖がらせないように。二人とも。できるね?」 「はい」 「やってみるか……」 二人の返事を得ると同時に、リンデルが駆け出す。 最初に気配を感じた方向へ。 一体、また一体と魔物を斬り伏せつつも速度を落とさず駆ける三人は、行手の視界が開けた先に、洞穴を認める。 その手前に、それは居た。 ハッとこちらに気付いたそれは、所々に闇を滲ませてはいたものの、一見まだ幼い少年のような姿をしていた。 後ろからまだ魔物は迫っていたが、先頭のリンデルが減速すると、二人も倣う。 「……お前らも、オレを殺しに来たのか?」 少年が、恐怖と悲しみにその表情を歪める。 その手足が、一瞬どろりと闇に溶けるように歪む。 「違うよ。私は君を助けに来たんだ」 リンデルが笑顔と共に告げると、少年は人の輪郭を取り戻しつつも、あからさまな動揺を浮かべた。 「主人様!」 叫びを上げて、ロッソが背後から迫る魔物へナイフを投げる。 しかし魔物は一体二体減ったところで差がないほどにその数を増やしていた。 「魔物は、君のことは攻撃しないね?」 リンデルが確認する。 「はっ、オレを人質に取ったって、こいつらはオレの言うことなんて聞か……」 「良かった。少しだけ待っていて」 リンデルはそれでも少年を背に庇うようにして、魔物達に向き合った。 「ロッソ、虫の目を潰すんだ!」 言葉が終わるか終わらないかのうちに、周囲の虫型の魔物へナイフが突き刺さる。 「ごめんカース、頼んでいい?」 「ちっ……しゃーねぇな……」 男がその瞳を紫へと変える。 その間も、ロッソが虫型の魔物を見つける度にその目を潰してゆく。 魔物達の瞳が、次々と男の放つ紫の光に魅入られる。 カースの息が苦しげなものに変わってゆくのが二人にも分かった。 見渡す限りの魔物が術にかかった事を確認すると、カースは魔物達にここへ近寄らないよう命じて術を完了させる。 「っ……!」 がくりと膝が崩れたカースの傾いだ肩を、リンデルが受け止めた。 「カース!」 「ぐっ……大丈夫、だ……」 カースが荒い息の隙間から返す。 しかしその表情は歪み、痛むのか、左眼を覆う手が震えている。 「ごめん……無理させて」 「いいから……話してこい……」 言われて、振り返ったリンデルは、少年が驚きを浮かべてカースを見ていることに気付く。 「……それ、アイラが使ってたやつだ……」 少年の呟きに、リンデルは城の隠し資料庫で見た極秘資料を思い浮かべる。 確か、あの実験の生き残りの中に、そんな名前の子が居たはずだ。 「お前、その力はどこで手に入れた」 少年の質問に、カースが苦しげに答える。 「……知るかよ、生まれた時から、こうだったんだ……」 「お前はアイラの子なのか……?」 「……っ、何の、話だ……」 カースの額に浮かんだ汗が、ぽたりと地に落ちる。 リンデルは思わずカースを抱き上げた。 「おわっ」 驚きの声をあげる男を、リンデルは大切そうに胸元に寄せる。 「カースはひとまず休んだ方がいいよ」 主人の言葉に、ロッソが素早く荷を解く。 「君はあの洞穴に住んでいるの?」 「あ。ああ……」 少年が思わず頷くと、リンデルがさらに尋ねた。 「私達も、この辺で休ませてもらっていいかい?」 ふわりと微笑まれて、少年がたじろぐように後退る。 「い、いい……けど……」 「そうか、ありがとう!」 嬉しげに目を細めるリンデルに、少年がほんの少し顔を赤くする。 それを、残る二人はなんとも言えない面持ちで見た。 ロッソが洞穴前に布を敷くと、そこへリンデルは男を寝かせる。 「ロッソ、頼むよ」 「はい。ですが……」 従者は、黒い瞳を心配そうに揺らして主人を見上げた。 「大丈夫。目の届く範囲で話すから」 にこりと微笑んで、リンデルはロッソの頭を撫でる。 「気を、付けろよ……」 カースが、痛みを堪えながらもリンデルを気遣う。 そんな男の愛にリンデルが心震わせた時、背後でぞわりと魔物の気配がした。 そこには少年がいたはずだった。 殺気を放たぬよう慎重に振り返ると、そこには魔物ではなく虚な表情を浮かべた少年が立っていた。 リンデルは気を引き締め直す。 幼い少年の姿に、どこか気が緩んでいたのかも知れない。 「そいつ、アイラの子孫……なのか?」 まだそればかりが気になる様子の少年の前に、リンデルは膝を付くと視線を合わせる。 資料には実験体の子孫の追跡もいくつか残っていたが、それも長くて百年ほどだった。何しろ、二百年も前の話だ。 「……そうかも知れないね」 リンデルは、はっきりと答えを返せないながらも、そう微笑んだ。 「そう……か……」 どこかに想いを馳せるように俯いた少年の輪郭が、また少しだけ闇に滲む。 「挨拶が遅れてすまない。私は……」 勇者時代にすっかり身に付いた口上を述べそうになって、リンデルは一度口を閉じる。 「いや、俺はリンデル。呼び捨ててくれたらいいよ」 知らず引き締めていた表情を、ふわりと和らげて微笑む。 気は引き締めても、態度は穏やかでなくてはいけない。 相手はこちらを敵だと思っているのだから。 「リンデル……」 久々に紹介された他人の名を、少年は思わず繰り返した。 「君の話を、聞かせてもらってもいいかい?」 なるべく優しい声で尋ねるリンデルに、 「オレの話なんか聞いて……どうする気だ」 と少年は、淡い緑の瞳に警戒を浮かべて聞き返した。 リンデルは金色の瞳を柔らかく細めて、少年の姿を見る。 ツリ目は生まれつきなのか、環境のせいか。 赤い髪は目にも襟にもまばらにかかっているが、自分で切ったのか、それともこれ以上伸びないのだろうか。 歳は二百を超えているはずだが、見た目は八つか九つほど……、資料にあった、実験後は体の成長が止まっているという表記の通りに見えた。 「どうすれば君を助けられるのか、考えたい」 少年は息をのんだ。 真っ直ぐに自分を見つめてくる金色の瞳。 こんな風に正面から、悪意なく見られたことが、今までどれだけあっただろうか。 けれど、話したところで、きっと何も変わらない。 いや、話せば、こいつはオレを殺すしかないと思うかも知れない。 でも話を聞きたいと言われたことが、助けたいと言われたことが、堪らなく嬉しくて、それに飛びつきそうになる。 躊躇いと切望が、じりじりと少年の輪郭を崩す。 暗い闇が少年の周りで渦巻くと、少し離れた場所にアリ型の魔物が姿を現した。 リンデルが背後に素早く視線を投げると、ロッソが頷きを返す。 リンデルは焦りを表に出さないよう細心の注意を払いながら、少年に囁いた。 「君に、触れてもいいかい?」 その言葉に、少年は驚きと戸惑いを浮かべる。 拘束される? いや、それならわざわざ尋ねたりしないはずだ。 少年は、意図を読めないまま、金色の光に誘われるように頷いた。 リンデルは少年をそっと抱き寄せる。少年に人らしい体温は無かった。 それでも、手に触れる感触は人のようで、リンデルは小さな肩を壊れないように包んだ。 向こうでは三体目のアリをロッソが沈めている。 カースが起きあがろうとしているが、まだ難しいようだ。 揺らいでいた少年の輪郭が、人らしい形に戻ると、それ以上魔物は発生しなくなった。 リンデルは少し考えてから「ちょっと待ってね」と少年に告げ、甲冑を脱ぎ始めた。 勇者時代のそれとは違い、今は一般隊員が身につける軽くて動きやすい小型のものを身につけていたが、それでも、少年を抱き締めるには邪魔な気がした。 「主人様……」 ロッソの心配そうな声が聞こえたが、リンデルが笑顔を返すと小柄な従者は黙って主人の甲冑を外す手伝いを始めた。 少年は、リンデルが鎧を外すのを不思議そうに眺めている。 その瞳に僅かながらも期待の色が滲んでいるのを、リンデルは光栄に思いながら、応えるように微笑んでみせた。 途端、少年は顔を赤くして視線を逸らす。 「君の名前を、教えてくれる?」 尋ねられ、少年はびくりと肩を揺らした。 「…………ケルト……」 「ケルトか。いい名前だね」 リンデルは資料通りの名であることを確認しながらも、そう答えた。 従者は外し終えた甲冑をまとめると、リンデルのそばに敷物を敷いて下がった。 リンデルは「ありがとう」と礼を告げて、そこへ座ると少年を呼んだ。 「おいで」 「!?」 リンデルの手は、自身の横ではなく、膝の上を示している。 「なっ、だっ……え!?」 予測出来ない出来事に固まってしまった少年へ、リンデルは首を傾げてしょんぼりと尋ねる。 「あ……、嫌だったかな……?」 しゅんと寂しそうに揺れる金色の瞳に、少年が動揺する。 「っ!! べ、べ……つに、嫌じゃ、ない、けど……」 段々と消え入りそうになる少年の言葉に、ロッソとカースは必死で声を殺している。 「ほんと? よかった」 リンデルが嬉しそうに微笑むと、少年は完全に真っ赤になった。 少年の小さな手を、リンデルがそっと握って引き寄せる。 ストンと膝の上に乗せられて、少年はドギマギと視線を彷徨わせた。 リンデルも、決して無意味に接触しているわけではない。 先程の様子を見る限り、この先話を聞くにあたって、なるべく早急にこの少年を慰められるようにしておかなければ、魔物の発生数がとんでもないことになりかねないと判断したからだ。 けれど、恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに膝におさまるこの少年を、リンデルは見せかけではなく、本当に大切にしたいと思う。 リンデルは少年の赤い髪を優しく撫でた。 一瞬びくりと肩を揺らした少年は、けれどそのまま大人しくリンデルに撫でられている。 少年は今、青年の右膝に腰掛ける形で横向きに抱かれていた。 「ケルトの事を、教えてほしい……」 頭上から降ってくる言葉は、少年の中に直接染み込んでくるような気がした。 少年は、記憶を辿りながら、ぽつりぽつりと話し始める。 ずっと昔の、二百年も前の、自分がまだ本当に人だった頃の話を……。 ————— 「オレは、より強い兵士を生み出すため、国の研究の実験台として、王が国中から集めたうちの一人だった……」 当時、隣国同士の戦争は終わる事を知らなかった。 孤児だと差し出せば、差し出した者には幾らかの報奨金がもらえた。 ほとんどの子どもたちは、戦争で親兄弟を亡くした孤児達だったが、中にはオレのように、金目当てで親に差し出された子も混ざっていた。 一人、また一人と部屋の子ども達が減っていく。 自分の親がどんなふうに自分を庇って死んだのか。 部屋に残された子ども達は、そんな話を語り合っては自身を慰め合っていた。 目の前の恐怖から逃げることも出来ず、ただ死を待つような日々。 自分がいかに、親に愛されていたのか、思い出したかったのだろう。 だがオレにはそんな経験もあるはずがなく、そいつらの話も、ただの自慢話にしか聞こえなかった。 愛されていた話を耳にする度、自分だけが愛されていないのだと言われているようだった。 「実験に呼ばれたときには、正直ホッとした。これで、こんな人生ともおさらばだと、そう思った……」 語る毎に、徐々に人の形を失ってゆく少年の輪郭を、リンデルはなんとか人に留めたくて、なぞる様に撫でていた。 しかしそれ以上にどろりとした闇が滲み出し、リンデルはぎゅっと少年を抱き締める。 ハッと少年が顔を上げる。 金色の髪を闇に染めながらも、金色の瞳はあたたかく少年を見つめていた。 リンデルは、淡い緑の瞳に自分の顔が映っているのを見て、安心したように微笑んだ。 「……っ」 と、その微笑みが一瞬崩れる。 ケルトの脳裏に、ずっと昔の友達の顔が鮮烈に浮かんだ。 自分の闇に触れ、痛いと、怖いと泣いて離れていった仲間達。 思わずケルトは青年の胸をぐいと押した。 自分から、少しでも遠ざけるように。 止められない。悲しみが胸から溢れてしまう。どろどろの闇になって。 この優しい青年を灼いてしまう。 しかしリンデルはそれを拒んだ。 「大丈夫だよ。落ち着いて……」 ぎゅっと青年のあたたかい胸に寄せられ、耳元で囁かれる。 けれど心を抉る思い出に、悲しみをすぐには押さえられず、少年が悲痛な声で叫ぶ。 「出来ないっ! オレから離れ……」 首を振る少年の顔を、リンデルが両手でしっかり掴む。 そのまま、少年は唇を塞がれた。 「!!??」 少年の瞳が驚きに見開かれる。 少し離れた場所で、ロッソが魔物を地に沈めた音がする。 指示がなくとも、やるべきことを理解し実行してくれる従者を、リンデルは誇らしく思う。 俺は俺のやるべきことを、全力でやろう。 決意も新たに、リンデルは未だかつてないほどに艶やかに微笑んで、そっと唇を離した。 「おっ、おま、え……っっっ」 ふるふると、小さく震える指でこちらを指す少年。 その顔は真っ赤だったが、闇はどこにも残っていなかった。 「急にごめんね。……嫌だった?」 「い、や、とか、そんなんじゃなくて、だな、お前っ!」 「うん?」 真っ赤なまま、プルプルと震えつつ必死に訴えるケルトに、リンデルは笑顔のまま首を傾げる。 「こーゆーのはっ、恋人同士で、やる事、だろ!?」 至極真っ当な意見をもらって、リンデルはしゅんとする。 「そうだよね。ごめん。他に方法が思いつかなくて……」 素直に謝られて、少年が言葉に詰まる。 「……っ」 「嫌な気持ちにさせちゃったね。ごめんね……」 少年よりも、ずっと大きい図体をしておきながら、言われるままにしょんぼりと反省している青年の姿に、少年が罪悪感を覚える。 「べ……、べつに、嫌とか、言ってるわけじゃ、ねぇけど……」 「ケルト、許してくれるの?」 ほわっと青年が期待に満ちた目で少年を見る。 「え、ええと……今度からは、急に、するなよ」 ケルトは金色の瞳が眩し過ぎて、目を逸らしながら答えた。 「うん、約束する。ありがとうっ」 ぱあっと咲くリンデルの花のような笑顔に、思わず顔を上げたケルトが心を射抜かれる音が、ロッソとカースには聞こえた気がした。 「お、お前……、この……」 「リンデルでいいよ」 言われて、少年はようやく伏せた目をチラと上げる。 ニコッと微笑まれて、慌てて視線を逸らしながら、ケルトは続けた。 「リンデルは……、この黒いやつに触ったら、痛い、だろ?」 その言葉に反応したのは黒髪の二人だった。 ざわり。と二人の気配が背後で膨らむのを、リンデルは背で宥めつつ答える。 「うん、少しね。でもほら。どこも怪我してないよ?」 リンデルが、何度も闇を撫でた手を広げて、少年に見せる。 ケルトは目の前に差し出された自分よりずっと大きな手を両手で握ると、表面を撫でたり、ひっくり返したりして、確かめた。 「そうか……怪我は、しないのか……」 少年のホッとした様子に、背後の二人がホッとした気配が重なり、リンデルは苦笑を堪えた。 「ケルトも痛いの……?」 「いや、オレは痛くもなんともない。……いい気分では、ないけどな……」 と眉を寄せるのを見て、リンデルはその赤い髪を撫でる。 ようやく落ち着いた様子のケルトに、リンデルは話の続きを促した。 ケルトは、渋々実験後の話を始める。 「よく分からない薬を飲まされて、体の何箇所かに針を刺された」 しばらくしてオレが目を覚ますと、やった、成功だと、研究者達は大騒ぎしていた。 結局、あんなに沢山集められていた子ども達のうち、生き残ったのはオレを入れて五人しかいなかった。 オレと同じ実験で生き残ったのは三人。 けど実際にそれができたのは、オレだけだった。 最初はアリで試した。 少しずつ、大きなものも魔獣化出来るようになった。 でもそれは、結局、コントロールのできないただの獣だった。 「それを操るための実験が、あの紫の目だ」 ケルトの言葉に、カースが小さく反応する。 けれど口を挟む気はないようだ。 「そっちの実験の生き残りのうち、術が使えたのはアイラだけだった。  けど、アイラはオレと違って、実験の後も成長した」 ケルトは一呼吸置いてから、ぽつりと呟いた。 「……あの獣は、オレの悲しみとか淋しさから生まれるんだ……」 リンデルの長い指が、ケルトの頬をそっと撫でた。 まるで涙でも拭うかのような動きに、ケルトは思わずリンデルの手へ自分の手を重ねた。 リンデルの手はあたたかい。 ケルトは、もう自分に体温がないことを分かっていた。 自身の両手を重ねても、物と物が触れ合った感触が伝わるだけだ。 いつからだったのかは、もう思い出せない。 研究者たちはオレを丁重には扱ったが、人とは思ってはいなかった。 淋しさが募るほど、オレの生み出す獣は大きく育った。 ……戦争には勝ったよ。 大人達は、これで平和になるって言ってた。 皆幸せになるとか言って喜んでたよ。 でも戦争がなくなったって、オレのとこには幸せなんかこなかった。 オレの体は成長しない。 それに、オレは魔獣の発生を制御できなかったから……。 どこにいたって……邪魔者だった。 周りに生き物がいない建物の中に、オレはいつも入れられてた。 国の職員がいつもオレを見張ってた。 何人目だったんだろうな。もう覚えちゃいないが。 そいつがあまりにも嫌なことばっかり言うやつで、闇が敷地の外まで漏れたんだろうな。 魔獣はそいつも、建物も、そこに住んでたやつらも、全部壊した。 オレだけが、魔獣に襲われずに残った。 沢山恨みを買ったみたいでさ。 後はただ、追われる度に逃げてきた。 オレが通った後には、魔獣がいくらでも生まれた。 魔獣はどんどん強くなって、オレに向かってくる奴らも、だんだん強くなっていった。 ここに逃げ込んでからも、時々人間がオレを倒しに来たよ。 ものすごい大勢、束になってきたこともあった。 「オレはどうやら、人間の敵らしいな……」 ケルトは、吐き捨てるように呟いて、小さな肩をさらに小さく縮めた。 リンデルがその背をさすりながら言う。 「それは違うよ」 否定の言葉ですら、青年の口からはとても優しく響いた。 「ケルト、知ってる? 君がここに篭ってから、この国はずっと、戦争をしてないんだ」 ケルトは不思議そうに青年を見上げる。 それは、そうだろう。 そのために、自分はこんな体になったのだから。 「この国だけじゃない。ケルトが居るこの山は国境に近いから、隣国にも沢山魔物が……あ、君の言う魔獣だね。魔獣が降りてるんだ」 「……っ」 リンデルの言葉にケルトが顔を背ける。 「ケルトを責めてるんじゃないよ?」 じわりと滲んだ少年の輪郭を撫でて、リンデルが胸元に少年の頭を寄せる。 闇が滲んでいるのに、痛いはずなのに、この金色の青年は何度も何度もオレに触れる。 どうしたら良いのかわからなくなって、ケルトは縋るようにリンデルを見上げた。 リンデルは、なんでもないようにふわりと微笑んで、ケルトを優しく撫でた。 「続きを話してもいい?」 尋ねられて、ケルトがコクリと頷く。 「あ、その前に。ケルトの話はあそこでおしまい?」 「ん……」 ケルトがもう一度コクリと頷いた。 「辛い話をさせてしまって、ごめん。話してくれて、本当にありがとう」 リンデルは真摯に頭を下げた。 こんな、膝の上にすっぽりおさまるくらいの、こんなちっぽけなオレに。 今日出会ったばかりだと言うのに、この人は『ありがとう』と、もうオレに三度は言った。 その言葉は、オレがずっと欲しかった言葉だ。 欲しくて、欲しくて、精一杯頑張って、でもずっと手に入らなかった言葉だ。 じわりと滲んだのは、輪郭ではなく視界だった。 「っ……」 ぽろりと零れた涙を、まるで当然のように、リンデルの指が拭った。 しばらくの間、少年の嗚咽がおさまるまで、リンデルは何も言わずに少年の赤い髪を繰り返し優しく撫でていた。 そんなリンデルの後ろでは、ロッソが夕食の支度を始めていた。 日はまだ陰るほどではなかったが、こんな野外では、何にしろ早めにしておいた方がいい。 カースもようやく起き上がれるようになったのか、洞穴のあいた崖の壁面に背を預けて座り込んでいるが、まだあまり顔色は良くなさそうだ。 リンデルは、ケルトが落ち着いてきたことを感じ取ると、自分の胸元に額を押し付けたまま、時折小さな肩を震わせている少年に向かって、ゆっくりと語りはじめた。 「ケルトが戦争をおさめるまで、この辺りはどこも地続きで国が隣接していたから、本当に昔からずっと、戦争が絶えなかったんだって」 ケルトは顔を上げなかったが、リンデルは聞いてもらえていると感じた。 「でも、ケルトが山に篭ってからの百年以上、戦争は一度も起こってないんだ」 リンデルの言葉を、カースも、ロッソも静かに聞いていた。 「現に、俺は戦争を知らないし、俺の両親もそうだったよ。  俺が、人同士で殺し合う、そんな悲惨な戦争を知らずに過ごせたのは、ケルトのおかげなんだ」 少年の肩がピクリと揺れる。 「どこからともなく、不定期に現れる魔物という脅威を前に、人々は一致団結したんだよ。  今では隣国とはどこも友好的な関係を築けてる。  いざ大量の魔物が出た時には、国境を超えて協力し合える協定だってある」 リンデルは知っていた。 魔物に殺された大勢の人達を。 その中には、リンデルの大切な人も沢山いた。 魔物に家族を殺され、残された人がどんなにいるのかも知っている。 自分だって両親は魔物に喰われたし、カースの腕だって、魔物に千切られた。 勇者だった頃は、魔物がいなくなれば、世界は平和になると信じていた。 けれど、そうではなかった。 そして、王や、歴史をよく知る者達は、それを知っていた。 だから、全面的に魔物の根源を退治しようとはしなかった。 ただ、それを生み出した国としての義務感はあったのだろう。 結果、時に条件を満たした勇者だけを、この山へと向かわせた。 リンデルは深く息を吸い込むと、静かに吐き切る。 後ろで話を聞いているカースとロッソの気配を感じる。 魔物がいなければ、カースに会う事はなかった。 勇者という存在もなければ、ロッソに会うこともなかった。 隊長や大勢の隊員達。 リンデルにとって大事な人達は皆、魔物を倒すために集まった仲間だった。 「……全部、ケルトがいてくれたからだよ」 リンデルは心からの感謝を込めて、伝えた。 ガバッと、ケルトが涙でグチャグチャになった顔を上げる。 「な……なん、で……」 リンデルが、ちょっと悩んでからそれを自分の袖で拭こうとするところへ、ロッソが横から布を差し出した。 ケルトはそれを受け取ると、派手に号泣した。 リンデルは、そんなケルトをよしよしと撫でながら囁く。 「今までひとりで大変だったね。よく頑張ったね……。本当にありがとう……」 ケルトの輪郭は、もう滲まなかった。

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