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(6)愛の形

誰かの視線を感じて、リンデルは目を開く。 天井のないこの場所では、目を開けばそこは空だった。 空はまだ薄暗くはあったが、夜明けを待つ色をしていた。 視線の主を確かめるように振り返る。 そこには、布の隙間から不安そうに覗き込むケルトの姿があった。 「ケルト……? どうしたの……?」 目を擦りながら、まだ寝ぼけたような声でリンデルが尋ねると、ケルトはびくりと肩を揺らした。 「おっ、お前らが起きてこねぇから、様子を見に来ただけだ……」 さっと視線を逸らして、ケルトが呟く。 その声には、ホッとしたような響きがあった。 「そっか、心配してくれたんだね。ありがとう」 リンデルが微笑むと、ケルトは「……別に」と残して去ってゆく。 けれどその頬は、ほんの少し染まっていたように思えた。 リンデルは、ケルトを追うべきか迷ったが、隣で眠るカースがこの会話で目を覚まさなかった事が気になった。 カースはまだ苦しげに眉を顰めたまま眠っていた。 その胸へと、手を伸ばす。 バチっと鋭い痛みが走って、リンデルはカースがまだそれを沢山背負っている事を知った。 二度、三度と、昨夜彼がそうしてくれたように、撫でては振り払う。 「私がいたします。主人様はケルトさんを……」 先程の会話で目覚めていたロッソが手を伸ばし、交代を申し出た。 「ありがとう、頼むよ」 その申し出を有り難く受け入れたリンデルが、半分ほど腰を浮かせて、ピタ。と動きを止める。 「ん……? ロッソ、カースのこと好きなの?」 「主人様の大切な方ですから。私も丁重な対応を心がけております」 差し障りなく返されて、リンデルがなんとも言えない顔をする。 「ええと……。頼めそう?」 「はい。お任せください」 にこりと返されて、リンデルはどこか腑に落ちない気分で簡易テントを後にした。 ロッソの事だ、出来ない事を出来るとは言わないだろう。 けれど、出来ると言い切るということは、つまり、ロッソはカースに愛を注げる自信があるってことだ。 「…………」 あの冬祭りの日、カースとロッソが二人だけで過ごしたはずの夜が胸を掠める。 あれから、あの二人の距離が近付いたとは思っていた。 カースが、ロッソのことを名前で呼ぶようになった事にリンデルは気付いていた。 リンデルは、モヤモヤとしたものを胸に感じつつも、カースの無事を祈り、気持ちを切り替えようと頭を振った。 ここは戦地だ。 ひとつ判断を誤れば命を落とす。 それは当然、自分の命だけでは済まされない。 昨日やむを得ず放ってしまった沢山の魔物達は、いずれ山を降りて人を襲うだろう。 それと戦うのは、後を託した勇者や仲間達のはずだ。 俺達は、大勢の人々の未来を背負ってここへ来ている。 それだけは決して忘れてはいけなかった。 リンデルは金色の瞳に覚悟を宿すと、それでも表情は緩やかに、ケルトの姿を探した。 ケルトは洞穴の中にいた。 「わぁ、結構広いね」 覗き込んだ洞穴は、入り口から想像するよりもずっと奥まで続いているようだった。 リンデルの声に、ケルトがびくりと肩を揺らす。 「なっ、なんだお前……」 「あ、そうだよね。ノックもしないで私室を覗くようなものか……。ごめん」 謝罪して、リンデルが洞穴から視線を外す。 「別に……、扉もねぇから……いーけどよ……」 許可をもらって、リンデルが振り返る。 明るくなってきた空から、一筋の光が差し込む。 昇ってきた朝陽に照らされて、洞穴の奥に沢山のものが浮かび上がった。 自然に拾ったらしい木の板で作られた簡素な棚に、大きさを揃えたり、色を揃えたりと、様々なものが飾られている。 色々な形をした岩や、綺麗な色の石。木片のようなものも並べられていた。 「わぁ……」 リンデルの漏らした声に、ケルトが少しだけ自慢げな顔をする。 それを見て、リンデルはこのコレクションを褒めても良さそうだと判断する。 「すごいね、こんなに沢山。……とっても綺麗だ」 どうだ、すごいだろう。という顔でふんぞり返りながらも、少年は「まあな」とだけ、そっけなく返した。 リンデルは僅かに苦笑を浮かべながらも、そっと心を痛めていた。 この子は、道具も持たなければ、力も持たず、知恵や技術もないままにこの山に逃げ込んだ。 だから、棚の作り方も分からなかった。 食事の作り方も知らなかったし、何が食べられるもので、何が食べられないものなのかも、分からなかったのだろう。 「……入ってこいよ、近くで見たっていいんだぜ。あ、でも触るんじゃねぇぞ」 誘われて、リンデルは「ありがとう」と洞穴へ足を踏み入れる。 そこは冷え冷えとして冷え切っていた。 「ケルトは山に来てから、この洞穴でずっと暮らしてたの?」 「ん? ……そうだな、最初はあちこちウロウロしてたが、ここに着いてからは、ずっとここにいる」 「そっか。ここなら雨も風も大丈夫だね」 と微笑みながらも、リンデルには、火を焚く様子もないこの少年が、降り積もる雪の季節を越えられるとは到底思えなかった。 彼はいったい、どこから人でなくなってしまったのだろうか。 そして、どうして今も、その姿でいるのだろうか。 確かに、少年には体温がなかった。 それでも、美味しいと夕飯を食べていた姿も、髪を撫でた感触も、こぼした涙も、人らしいものだった。 ふと気づいて、リンデルはケルトの顔を横目でもう一度確認する。 昨夜あれだけ泣いていたのに、彼の目に腫れぼったさは全く残っていなかった。 背筋を寒気が通り抜けるのを、奥歯を噛み締めて堪える。 臆するな!! 相手が何であっても関係無い。 自分はこの存在を、助けに来たんだ!!! リンデルは、決意を強く心に刻む。 「……リンデル?」 少年に問われて、石を眺めたままの姿勢だったリンデルは、振り返り答えた。 「ん? ああ、ごめん。あまり綺麗で、見惚れてたよ」 「……っ」 ケルトが一瞬言葉に詰まる。 「い、いつでも……、見にきて、いいぞ。……っお前だけは、特別に、許してやる」 こちらに背を向けてそう告げる少年の耳が、ほんのり赤くなっているのを、昇りきった朝日が明るく照らしている。 「……ありがとう……」 リンデルの胸が小さく軋んだ。 ---------- 「ただいま」 リンデルはケルトの状態が安定していると判断して、一度簡易テントに戻った。 床では、カースがまだ苦悶の表情を浮かべたまま、眠っていた。 「カース……」 リンデルの言葉に、ロッソが状況を報告する。 痛みが半減する程度には、穢れを払ったこと。 それでも目を覚ます様子がないこと。 そして、時々うわ言のように、リンデルの名を呼んでいること。 報告に、金色の瞳が揺れる。 ロッソは「朝食の支度をしてまいります」と言い残すと、テントを後にした。 リンデルは男へ口付ける。 唇から刺さるビリッとした痛みは、直接頭を灼くようだった。 思わず顔を顰めてから、昨夜のことを思い出す。 カースはこんな痛みを受けながら、俺の頭の穢れを落としてくれたのか……。 リンデルは、男の閉じたままの瞼へ、目元へ、額へ、髪へと口付けを降らせる。 無理をさせたのは自分だ。 彼をこんな目に遭わせてしまったのは、全て自分だった。 このまま……、このまま、男は目を覚さないのではと思うと、堪えきれず、涙が溢れた。 どうか、目を覚ましてほしい。 ほんの少しでいい。その瞳で俺を見てほしい。 そうすれば、この不安も恐怖も、吹き飛ぶはずだった。 けれど、リンデルの願いも虚しく、カースは眉間の皺を濃くした。 「……っ……」 カースの唇が僅かに動く。震えるようなその動きをじっと見つめていると、カースは掠れた声で、小さくリンデルの名を呼んだ。 それは、リンデルが恐怖から男に縋ろうと必死になっているような、助けを求める声ではなかった。 まるで、愛してると、大丈夫だと、囁かれたようだった。 リンデルは理解する。彼は、苦しい夢の中でもなお、俺を守ろうとしてくれているのだと。 そんな彼に、自分の恐怖を押し付けようとしていたなんて。と、気付いてリンデルは自分を恥じた。 「ごめん、カース……。俺も愛してるよ。カースを、誰より、愛してる……」 愛をひたすらに込めて、リンデルは男に深く口付けた。 どうか目覚めてほしい。 でもそれは、俺のためにじゃなく。 カースの未来のために……。 カースの寄せられていた眉がじわりと解けてゆく。 この人は、出会ったばかりの頃は、いつも顰め面だったな、とリンデルは思い出す。 言動の端々から、死に焦がれながらも生に縛り付けられている苦悩が見え隠れする度、この男は一体全体、どんなに辛いことばかりの人生だったのかと、子ども心に思ったものだった。 だから、最初の頃は、眠っている時の、穏やかな顔を見るのが好きだった。 ……いつからだろう。 自分の前でだけ、その眉を弛めてくれるようになったのは。 いつから、この男は、こんなに俺を愛してくれていたんだろう。 瞼の裏に男の微笑みが浮かぶ。 男はいつも、眩しそうに目を細めて俺を優しく見つめてくれた。 口元は緩やかにほどける程度の、淡い微笑み。 それが俺へ向けてくれる普段の笑顔。俺の大好きな顔だ。 冗談を言ったりする時の、ニヒルに口端だけを持ち上げた笑顔も、かっこよくて好きだ。 大口を開けて笑うことの滅多にない男が、ほんの時々、ハハハと声を上げて笑う様も、なんだか少し幼く見えて、たまらなく好きだった。 リンデルは、愛に導かれて、男の鼻先に、瞼に、そっと口付けを献げる。 弾ける痛みすら、今はどこか優しく感じられた。 「カース……大好きだよ……」 夢の中で、カースは暗闇の中にいた。 前も後ろも分からない暗闇で、息も出来ずに、男は足掻いていた。 リンデルは無事だろうか……。 そればかりが気にかかる。 まだ男には、あの青年に注げる愛がいくらでもあるというのに、力及ばず、意識を保てなかった。 それが悔しくて、どうしようもなく歯痒い。 リンデルはあの性格だから、一人で無理をして、なんでもないふりをして、一人きりで痛みに耐えているんじゃないか、と。 そう思うと、心が掻き毟られるようだった。 ふと、男はリンデルに呼ばれたような気がして、そちらを見上げる。 僅かに差し込んできた金色の光は、次第におひさまのようにあたたかな光の奔流となって、男に纏わりついていた闇を見る間に洗い流してゆく。 ああ、リンデルだ。と男は思う。 リンデルはまさに、男にとって光そのものだった。 リンデルが、俺を呼んでいる……。 そうして、男は目を覚ました。 「おはよう、カース」 目の前には、リンデルの顔があった。 その顔は嬉しそうな、泣き出しそうな顔をしていた。 「ああ、おはよう……」 滲んだ瞳に覗き込まれて、カースは否が応でもゼフィアを思い出した。 失神から目覚めれば、いつも、あいつの泣き顔があった。 自分で飛ばしておきながら、意識を失った俺が目覚めるまで、ずっと傍を離れなかったあの男……。 今までずっと認められなかったことが、この時のカースには、なぜかストンと受け入れられた。 果てしなく歪んではいたが、ゼフィアも俺を愛していたのだと。 「……カース?」 ぼんやりとした男の様子に、リンデルが不安そうな声で尋ねる。 「ああ、いや……なんでもな……」 「ぜフィアのこと、考えてたでしょ」 言われて、カースはギクリと表情を硬くする。 「なっ、お前……っ」 「俺だって知ってるよ。カースがお頭のこと好きなのくらい」 言われて、カースは目を見開いた。 しばらく考え込むように俯いて、それから小さく呟いた。 「………………そう……、だったのか…………」 ようやくカースはそれに気付いた。 何をされても、いつも結局、心のどこかであいつを許していた俺も……。 そう、俺も……、知らないうちに、あいつを、愛していたんだ……。 「……俺は、正直気付いてほしくなかったけど」 と前置きをして、リンデルが続ける。 「ここから先は、少しでも愛は多い方が良さそうだからね」 そう呟いたリンデルの横顔は、いつの間にか歴戦の勇者のそれになっていた。 「カースを守れるなら、ちょっとくらい我慢するよ」 「リンデル……」 どこか遠いその横顔に、思わず名を呼んだ男へ、リンデルはいつもの顔で心配そうに問いかける。 「どこか痛いところはない? 苦しいところは……?」 言われて、男は体の調子を確認する。 左眼はまだ痛んだが、驚いた事に全身の穢れはほとんど消えて無くなっていた。 「お前……一体、何をしたんだ……?」 「ん?」 リンデルが、全く身に覚えのなさそうな顔をして、くりっと首を傾げる。 「カースのこと、大好きって気持ちで、キスした……くらいかな?」 男は唖然とした。 それだけで、穢れを払えるなんて……。 この青年は、本当に太陽のようだ。 溢れんばかりに愛を抱えて、それを必要な人に惜しみなく注げる……。 真の勇者というのは、こういう存在なんだろうか……。 リンデルは、男が自分の発言に呆れ返ったと思ったのか、今更恥ずかしそうにする。 「だって……カースが俺のこと、いつも大事にしてくれるから……。嬉しくて……。カース、夢の中でも、俺のこと心配してたでしょ?」 頬を染め嬉しそうに、しかしどこか拗ねたように、ぶつぶつと呟くリンデルの、その落差に男は声を出して笑った。 「カ、カース……?」 カースは、片腕で腹を抱えながら、涙目で言った。 「……お前は、間違いなく、本物の勇者だよ……」 リンデルは、男の笑顔を胸いっぱいに吸い込んで、金色に微笑んだ。

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