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(9)白い場所

ケルトの気配が膨れ上がる。人ではなく、魔物の気配で。 「ケルト!」 素早く少年へ駆け寄るリンデル。 しかし伸ばした手は、触れた瞬間、痛烈な痛みと共に弾かれる。 一瞬、腕ごと吹き飛んだ気がして、リンデルは自身の腕を目視した。 「待て、ケルト!」 遅れて駆け付けたカースが腕を伸ばすも、それが届くより早く、少年の輪郭はどろりと闇に溶け失われた。 「チッ、リンデル! 避けろ!!」 少年だったものは、まるで金色の青年を飲み込もうとするように大きく広がる。 リンデルはその闇へと手を伸ばした。 見失ってしまったケルトに、もう一度出会うために。 「今は無理だ!」 カースが反対側の腕を引く。 「っ……俺は! ケルトを諦めない!!」 金色の青年が、一瞬だけカースを振り返った。 この腕を振り払われる、とカースが確信する。 瞬間、カースはリンデルの手を離すと、背を押すようにして一緒に闇の渦へと飛び込んだ。 「カース!?」 闇の中は、苦しみが逆巻く嵐のようで、全身を刻むような痛みがひっきりなしに襲う。 「俺だけ生きろなんて、お前に言われてたまるかよ!! 死ぬときは一緒だっつったろ!!」 暗闇の中で、カースが叫んだ。 それは、俺を殺したくなきゃ、一緒に生き残れと言っているようにリンデルには聞こえた。 「あいつはまだそこにいる! 手を伸ばせリンデル!!」 ぐいと、体重をかけて、カースがリンデルの背を押す。 痛みの向かってくる方へと、リンデルはカースの力を借りて歩を進めた。 何かに手が届いた。途端、激しく切り付けて来るような痛みと、会話も困難なほどの轟々とした音が止んだ。 シンとしたそこは、現実とは程遠い、見渡す限り真っ白で何もない空間だった。 「わ。カース、血だらけ……」 リンデルが、男を振り返って言う。 「お前のが酷ぇよ」 男は息を整えながら答えた。 「あ……ほんとだ……」 見れば、リンデルの手はほとんどその形を残していない。 怪我を確認した途端、痛みが全身に走り、リンデルはその場に片膝をついた。 「大丈夫だ。俺が治してやる」 そう言って、カースはリンデルの血まみれの手を取ると、愛しげに口付ける。 無いはずの部分に熱を感じて、リンデルはこの傷が心に受けたものであることに気付いた。 カースにそっと愛を注がれる度、リンデルの怪我は治ってゆく。 「わぁ……」 リンデルが呑気な声をあげるのを、カースが半眼で見上げた。 「おい、後ろ振り返ってやれ」 言われて振り返ると、先ほどリンデルが手を伸ばしたあたりに、ケルトが立っていた。 「ケルト……よかった……」 笑顔で手を伸ばされて、ケルトは一歩退いた。 「ケルト……?」 少年は青ざめた顔で、まだ全身を切り裂かれたまま、血に濡れる二人を見つめている。 「……俺を、殺してくれ……」 少年の言葉に、リンデルは凍り付いた。 「リンデル。お願いだ……。きっと、ここでなら、俺は死ねる……」 縋り付くような瞳で、ケルトがリンデルを見上げる。 「っそんなの出来ないよ! 俺は、ケルトを助けたい。ケルトだって、助けられたいと思ってる。それなのに、そんな事は出来ない!」 リンデルがケルトの淡い緑の瞳を見つめて言い切る。 これはリンデルの本心だ。 「けど……俺はリンデルを……傷付けたくない……」 しかし、ケルトの言葉も、また本心だった。 ケルトが、縋るように、祈るように、リンデルの向こうのカースを見る。 カースには少年の求めが分かったが、小さく首を振って、口を開いた。 「いいか、落ち着け。ケルトも、リンデルもだ」 二人の間に割って入ろうとするカースだったが、それは一歩遅かった。 「ケルト……、俺と一緒に、帰ろう?」 優しく微笑むリンデルの指が、まだ血に濡れた指が伸ばされて、ケルトは怯えた。 心から恐怖した。 またこの手を、傷付けてしまうことを。 怖れは一瞬でその形を変え、リンデルを拒絶した。 結果、リンデルはなす術もなく血の海に沈む。 「リンデル!」 叫ぶ男の声が、ケルトにはどこか遠く聞こえた。 「ぁ……」 リンデルを助けなくては。 けれど、ケルトが手を伸ばせば、リンデルはもっと傷付いてしまうだろう。 「あぁ…………」 ケルトは、どんどん広がってゆく血の海から逃げるように、後退る。 「あぁぁぁあああああああああああああああああ!!!!!」 ケルトの絶叫が、空間を引き裂くように響き渡る。 カースは、リンデルを抱き起こすと血に濡れた唇に構わず口付ける。 「……ぅ」 と小さな反応に、まだ大丈夫だと胸を撫で下ろす。 まだリンデルの心は生きている。 次はケルトだ。 「ケルト! 聞こえるか!?」 外じゃどうなってるか分からないが、下手すりゃ今頃そこら中を魔物に囲まれてたっておかしくはない。 ケルトの瞳は開け放たれたまま、光を失っている。 「おい、ケルト、話を聞け!」 全く反応のないケルトに、カースは舌打ちつつ、もう一度リンデルに口付けると、そっとおろして立ち上がった。 効くかどうかは分からないが、やるほかない。 男は左眼を紫に染めて、ケルトの瞳を覗き込む。 術にかかった手応えはある。しかしその負荷は想像を遥かに超えた。 歪む視界を必死で保ち、はっきり告げる。 「落ち着け、俺の話を聞け」 そこまででカースは術を終了させる。これ以上は持ちそうになかった。 ケルトの瞳にじわりと光が戻る。 それを確認すると、リンデルの血溜まりを隠すようにカースはケルトへ背を向けた。 崩れるように膝をつくと、カースは荒い息の合間から、なんとか言葉を紡ぐ。 「……リンデル、なら、大丈夫だ……。こいつはそんなに……やわじゃ、ねぇ……。俺が必ず、こいつを、助ける……」 「カース……」 術のおかげか、ケルトの声は随分と冷静に聞こえた。 「とにかく、お前はそこに座れ……」 言われて、ケルトは大人しく座り込んだ。 男は、血塗れのリンデルに躊躇うことなく触れた。 愛しげに髪を撫で、閉じたままの瞼へ口付け、耳元へ愛を囁くように。 歪な姿をした肩へも、失われた腕へも、男は微塵も迷いを見せず、本来あるべきラインをなぞるよう撫でた。 まるで、この青年のことなら、隅々まで知っているとでも言うように。 男が触れるそばから、リンデルの傷が癒えてゆく。 四肢の全てがその姿を取り戻すと、いつの間にか血溜まりすら消えていた。 「リンデル、そろそろ起きろ。ケルトが心配してるぞ」 カースはそう言うと、金色の青年の頬を撫で、一層の愛を込めて口付けた。 「ぅ……ん……。…………カース……?」 金色の瞳が、緩やかに開く。 まるで、時間を気にせず微睡んだ午睡の後のように、リンデルは幸せな気持ちで目覚めた。 リンデルの声に、ケルトが思わず駆け寄る。 「リンデルっ! 大丈夫か!?」 「ああ、俺は大丈……っカース!? その眼……っっ」 リンデルの顔色が変わって、男は慌てて左眼を隠した。 手に伝わるドロリとした感触に、男は一瞬眉を寄せた。 左眼が痛むのはわかっていたし、何も映していないことも気付いていたが、何やら見た目に良くない感じになっていたらしい。 「大丈夫だ。気にするな」 短く答える男の顔色は、酷い土気色をしていた。 リンデルは自身と男を見比べて焦る。 自分はすっかり怪我もないというのに、男はまだ全身を刻まれたまま、赤々とした雫を点々と零している。 また、この人ばかりに無理をさせた。 俺は何を呑気に寝ていたのだろう。 「っ、カース、ごめんっ!」 たまらず、リンデルは男を抱き締める。 「おい、こら、ケルトが見て……っんっ」 嗜めるその口を、リンデルは唇で塞いだ。 男が少しでも元気になるように、その痛みが楽になるように、愛と祈りを込めて。 ケルトは一瞬たじろいだが、カースの傷が目の前で見る間に消えてゆく、その様子に目を奪われた。 リンデルは、男の中へとそっと侵入する。 「っ……、やめ……っ」 びくりと肩を震わせ、慌ててリンデルを押し退けようとする男を、リンデルは離さなかった。 「ぅ、んっ、んんっっ」 後頭部を支えられ、頭を離すことすら出来ずに文句を言うカースの口内を、リンデルはゆっくりと、隅々まで撫で回した。 もう少しだけ。カースの心から、涙のような血が零れないように……。 たっぷりの愛を込めたリンデルの口付けに、男はそれ以上抵抗できなかった。 恥ずかしさに頬を染め、精一杯ケルトの方を見ないようにしている男を、リンデルは一層愛しく感じる。 見える範囲の傷が癒えたことを確認すると、名残惜しそうにゆっくり男を離した。 「……っ」 男は、耳まで赤くして、俯くようにそっぽを向く。 見れば、ケルトも同じように赤くなっていた。 「ケルトも、びっくりさせちゃってごめんね。もっと早く伝えておけばよかったね」 そう言って、リンデルが微笑む。 まるで何事もなかったかのような、むしろスッキリしたような顔で。 「い、や……。俺こそ、勝手に動揺して……悪かっ……」 答えるケルトが、両目からぼろりと大粒の涙を溢した。 「ケルト……」 手を伸ばそうとして、リンデルがカースをチラリと振り返る。 カースが頷くのを見て、リンデルはケルトを抱き締めた。 ケルトにとって、リンデルのキスは生まれて初めてもらった愛だった。 いつだって笑顔で応えてくれるこの青年は、もしかしたら自分のことが好きなのかも知れないと、どこかで思ってしまっていたのだろうか。 そんなこと、あるはずがないのに……。 リンデルに抱かれたまま、じわりとケルトの輪郭が滲んで、カースがそれを撫でた。 あたたかい大きな手がゆっくりと自分を撫でる。 ここへ来てからこの男は、毎晩、ケルトが寝付くまでそうして撫でていてくれた。 今までは、眠るのが怖かった。 目を閉じてしまったら、もう人の姿を保てなくなりそうで。 もう、人だった自分すら、忘れてしまいそうで。 けれど、この男は毎晩、大丈夫だと囁くように、俺を撫でてくれた。 その手が大好きだった。 「リンデル、カース……」 名を呼ばれて、リンデルがそっと体を離し、金色の瞳で真っ直ぐケルトを見る。 「なんだ?」 カースも、いつもの低く優しい声で、短く答えた。 「二人は、俺のことが……」 そこまでで、言葉は途切れた。 「っ……」 言葉にしても良いのかを迷うように、ケルトは眉を顰めて息を詰める。 「なんでも聞いて?」 とリンデルが微笑む。 息を詰めたケルトの頬が徐々に色づくのを見て、質問を待たずにカースが答えた。 「俺はお前のこと……、かなり気に入ってるぜ」 男の返事に、リンデルが『なるほど』という顔をする。 「俺も好きだよ、ケルトのこと」 さらりと告げると、補足する。 「あとね、カースはこういう言い方だけど、これは大好きってことだよ」 「……」 カースは返す言葉もなく、照れ臭そうに眉を寄せて沈黙する。 「俺も、ケルトのこと、大好き!」 リンデルがおひさまのように笑うと、ケルトとカースへ両腕を広げて、二人同時に抱き締めた。 急に飛びついてきたリンデルにバランスを崩し、三人まとめて転ぶ。 ケルトが思わず閉じてしまった目を開くと、そこは洞穴の前だった。 「あ、戻った」 リンデルの声に、カースが低く呻く「状況は良くねぇが……」 「主人様っ!!」 悲痛な叫びは間近で聞こえた。

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