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そのとき。
柚木の両手首を無慈悲に捕まえていた手が離れていった。
重体だと思っていた比良が目の前でマストを引き起こし、衝撃の展開に思考回路がフリーズしていた柚木は、すぐに気づくことができなかった。
そして、いやに長引く生殺しの状態に耐えられなくなり、ようやく目を開けてみれば。
比良は無慈悲だった両手の片方に思いきり噛みついていた。
血が滲むほどに。
柚木から離れ、鼻孔で深呼吸し、瞼を閉ざして身の内に巣食う凶暴な欲望を鎮めようとしていた。
何事もなかったかのように静かで明るい校内。
深く長い息遣いが束の間の沈黙に溶けていく。
柚木はもぞもぞ起き上がった。
壁際に座り込み、俯いて自分の手をずっと噛んでいる比良に恐る恐る声をかけた。
「比良くん……」
閉ざされていた瞼が僅かに痙攣する。
ゆっくりと持ち上げられ、つい先刻よりも赤みの引いた双眸が柚木を見つめた。
「お……おれのこと食べていいから……自分の手、もう噛まないで……?」
そう言われた比良は。
無傷な方の手で真横へやってきた柚木の頭を撫でた。
「ありがとう、柚木」
(あ)
よかった。
いつもの比良くんだ。
「よ……よかった~……うううっ……ぶひっ……」
柚木は子豚みたいに鼻まで鳴らして嗚咽した。
歯形のくっきりついた片手が痛々しい。
それでも優しい笑顔を向けてくれる比良に心がジンジンした。
「それ……俺がやったのか」
「え?」
「シャツ、破れてる」
返事に困った柚木は言いよどむ。
「バスでのことを柚木に謝って、それから……記憶が飛んでる……それに目の痛み……発熱……」
廊下に座り込んだままの二人を西日が惜しみなく包み込んでいた。
「……俺の目、赤くなってたか……?」
柚木が正直に頷けば、長い睫毛の影を落として比良は目を伏せた。
「……マストか……」
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