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(間に合わなかった)
柚木は呼吸を忘れそうになった。
ついさっきまで会話していた<比良くん>は消え失せていた。
マストに理性を蝕まれたアルファがそこにいた。
「比良く……」
踊り場の掲示板に張り出されたポスターが耳元でぐしゃりと破られ、柚木は、身を竦ませる。
次から次に引き千切られて踊り場に落ちていった紙屑。
「はぁッ……はッ……」
飢えた目つき、荒々しい息遣い、一瞬にして立ち上った剣呑なオーラ。
金曜日と同じ変貌ぶりに柚木の恐怖心はぶわりと頭を擡げた。
(怖い、逃げたい、誰か助けて)
だが、マストになったことを周囲に伏せている比良のことを思うと、助けを呼ぶのにブレーキがかかった。
「比良くん、お願い、いつもの比良くんに戻ろ?」
怖々と呼びかけてみたら。
ギロリと睨みつけられた。
(ひーーー!! やっぱむり、だめ、怖い!!)
「う、う……」
震え上がっていた柚木は忙しげに瞬きする。
殺気立った眼差しで短く荒い呼吸を繰り返していた比良が、急に俯いたかと思えば、自分の頭を掻き毟った。
「ゆず……き……ッ」
「ッ……うん、おれ、柚木だよっ?」
両手で顔を覆った比良は長い指越しに柚木を見た。
「一年から同じクラスの、へっぽこオメガの柚木だよ?」
恐怖心と闘いながらも柚木は一生懸命笑顔を浮かべる。
いつもの優しい彼に戻ってほしくて小声で呼びかけた。
「戻ろう、比良くん? 優しくて、かっこよくて、みんなから好かれてる比良くんに戻ろう?」
比良は……ギリッと歯軋りした。
震える手を柚木へ伸ばしかけて、途中で止める。
その手に、包帯が巻かれた手に、またしても自ら噛みつこうとーー
「だめっ」
柚木は噛みつく寸前だった比良の腕にしがみついた。
(比良くんも闘ってる)
マストの自分を抑え込もうと必死で闘ってるんだ。
でも、もう、自分で自分を傷つけてほしくない。
「おれのこと噛んでっ」
(比良くんのためにおれができること、それは噛まれ役!!)
「う、うなじは勘弁だけど、その他ならどこでも噛んでいいっ」
自傷行為を柚木に止められた比良は明らかに苛立った。
絶対的な衝動の捌け口を求めて、形振 り構わず、自ら火に飛び込むウサギのように身を差し出してきたクラスメートにさらに迫る。
恐ろしく気が立っているアルファがガバリと口を開き、柚木は全力で瞼を閉じた。
(痛いの確実だけど我慢する!!)
そして。
柚木は憧れの比良に容赦なくバクリと……ファーストキスを奪われた。
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