21 / 333

4-5

(間に合わなかった) 柚木は呼吸を忘れそうになった。 ついさっきまで会話していた<比良くん>は消え失せていた。 マストに理性を蝕まれたアルファがそこにいた。 「比良く……」 踊り場の掲示板に張り出されたポスターが耳元でぐしゃりと破られ、柚木は、身を竦ませる。 次から次に引き千切られて踊り場に落ちていった紙屑。 「はぁッ……はッ……」 飢えた目つき、荒々しい息遣い、一瞬にして立ち上った剣呑なオーラ。 金曜日と同じ変貌ぶりに柚木の恐怖心はぶわりと頭を擡げた。 (怖い、逃げたい、誰か助けて) だが、マストになったことを周囲に伏せている比良のことを思うと、助けを呼ぶのにブレーキがかかった。 「比良くん、お願い、いつもの比良くんに戻ろ?」 怖々と呼びかけてみたら。 ギロリと睨みつけられた。 (ひーーー!! やっぱむり、だめ、怖い!!) 「う、う……」 震え上がっていた柚木は忙しげに瞬きする。 殺気立った眼差しで短く荒い呼吸を繰り返していた比良が、急に俯いたかと思えば、自分の頭を掻き毟った。 「ゆず……き……ッ」 「ッ……うん、おれ、柚木だよっ?」 両手で顔を覆った比良は長い指越しに柚木を見た。 「一年から同じクラスの、へっぽこオメガの柚木だよ?」 恐怖心と闘いながらも柚木は一生懸命笑顔を浮かべる。 いつもの優しい彼に戻ってほしくて小声で呼びかけた。 「戻ろう、比良くん? 優しくて、かっこよくて、みんなから好かれてる比良くんに戻ろう?」 比良は……ギリッと歯軋りした。 震える手を柚木へ伸ばしかけて、途中で止める。 その手に、包帯が巻かれた手に、またしても自ら噛みつこうとーー 「だめっ」 柚木は噛みつく寸前だった比良の腕にしがみついた。 (比良くんも闘ってる) マストの自分を抑え込もうと必死で闘ってるんだ。 でも、もう、自分で自分を傷つけてほしくない。 「おれのこと噛んでっ」 (比良くんのためにおれができること、それは噛まれ役!!) 「う、うなじは勘弁だけど、その他ならどこでも噛んでいいっ」 自傷行為を柚木に止められた比良は明らかに苛立った。 絶対的な衝動の捌け口を求めて、形振(なりふ)り構わず、自ら火に飛び込むウサギのように身を差し出してきたクラスメートにさらに迫る。 恐ろしく気が立っているアルファがガバリと口を開き、柚木は全力で瞼を閉じた。 (痛いの確実だけど我慢する!!) そして。 柚木は憧れの比良に容赦なくバクリと……ファーストキスを奪われた。

ともだちにシェアしよう!