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『行くな』 比良が初めてマストになった日のことが柚木の脳裏を掠めた。 「比良くん」 でも、あのときのように力任せではない。 その手は冷えていた柚木の五指を温めるように包み込んでいた。 白目に多少赤みの残る双眸は、眼痛が完全に引いていないのか、眩しそうに細められている。 「まだ目が痛むの? ほんとに大丈夫……?」 「この痕、俺が噛んだのか?」 柚木は目をまん丸くさせた。 手首にくっきりついた痕を自分の噛み痕だと勘違いしている比良に慌てふためいた。 「違う違う、違うよ、これは自分で噛んだやつ!」 「……柚木にそんな真似をさせるくらい、俺はひどいことをしたんだな」 (ひどいことっていうか、ひどくえっちなこと……です) 「怖いとか、痛いとか、そういうのじゃないから、だ……大丈夫だぁ……うん」 最初はただ怖かった<マストくん>に対する気持ちの変化を説明しようとして、うまく言葉にできずに、何やらいろいろ鮮明に思い出して柚木は赤面した。 「まぁ、その、血とか出てないし」 「出血してないからいい、そういう問題じゃない……俺が偉そうなことを言える立場じゃないが」 比良は立ち上がった。 柚木のスクールシャツの袖を捲り、両手を添えて丁重に持ち上げ、噛み痕を確認した。 「俺自身がいつ柚木をこんな風に傷つけるかわからない」 「……」 「傷つける前に口枷をつけようかな」 (は・い?) 「く、口枷って噛みつき防止の口輪(マズル)ってこと? ワンコじゃあるまいし、口輪なんかつけて日常生活送れるわけないし、いくらなんでも、そこまでは……」 (口輪つけた比良くん……ちょっとだけ見てみたいよーな気もする……) ていうか。 比良くんに手を握られた。 今もお医者さんみたいな手つきでおれの腕に触れてる。 さっきまでおれのナカでヤラシク動いていた指が……。 「ッ、もう……帰らなきゃ……」 比良の指先の微熱を心地いいと思う反面、はしたない回想が頭に湧き出して居た堪れなくなり、柚木は腕を引っ込めた。 埃っぽい空き教室で、顔を伏せたクラスメートのつむじに向かって、比良はありふれた言葉をかける。 「一緒に帰ろう」 (比良くんと一緒に帰るのは遠足振りで二回目になる) つまり二回目の身に余る幸運。 もしかしたら明日世界は終わるのかもしれない。

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