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リビングで交わした会話を踏まえ、恐縮しながらも憧れのクラスメートと視線を合わせて「帰り、気をつけて」と言葉をかけた。
「ああ。お邪魔しました」
(あ。比良くんの髪にも大豆の毛が……)
「待って、比良くん」
玄関ドアの取っ手を掴もうとしていた比良はくるりと振り返った。
「頭、大豆の毛がついてーー……」
不意に、日が暮れて深みの増していた黒曜石の瞳が柚木の目の前に迫った。
今にもキスしそうな距離で視線が重なって思わず硬直してしまう。
呼吸の仕方まで忘れかけた。
「とってくれるか?」
「っ……えっ、あっ、ハイ……」
屈んでいた彼の頭に手を伸ばし、漆黒の髪にくっついていた大豆の毛を取り除く。
「ありがとう。柚木は優しいな。じゃあ、また学校で」
比良は柚木家を去っていった。
(大袈裟だよ、さっき比良くんだって取ってくれたじゃん……)
数多のハートを射止める笑顔の残像が視界に尾を引いて、柚木は、しばし玄関で放心していた。
(比良くん、また遊びにくるって言ってた)
連絡先まで交換してしまった。
国宝並みに貴重なアカウントだ、しばらく寝る前に拝ませてもらおうっと。
「……」
口元を綻ばせて携帯を覗き込んでいた柚木は、ふと数回瞬きし、閉ざされた玄関ドアを見つめた。
「……おれの方こそ勘違いしちゃだめだ……」
同じクラスでも住む世界が違う。
月とスッポン。
自分自身と比良をそう区別してきたオメガ男子は制服ズボンのポケットに携帯を仕舞う。
(おれはマストくんの欲を解消させるための性処理係、それ以上でも以下でもない)
比良くんは誰にも分け隔てなくて、みんなに優しい。
おれだけが特別扱いされてるわけじゃない。
「おれは池の底を這うスッポンへっぽこオメガ……お月様には一生届かない……」
極端なまでに卑屈になった柚木は、家族が帰ってくるまでの間、薄明るい玄関に一人ぼんやり立ち尽くすのだった。
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