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「谷は」 壁に寄りかかって気怠そうに首を回していた谷に比良は視線を向ける。 「前にここから俺のことを見送ってくれたな」 「へっ? 谷くんが? いつ?」 「先月の話だよ、柚木。目が合ったから、よく覚えているんだ」 「そーなんだ……ふぅん……?」 釈然としない柚木は首を傾げた。 ポニテ結びが堂に入ってきた谷は、その話題には触れずに「もう帰っていいでしょーか、ここ暑いンですけど」と比良に文句をぶつけた。 「……谷、比良クンが私達に話したいことがあるんだから、最後までしっかり聞きなさい」 「めんどいの極み」 「……このクズ谷」 どこか覇気がない阿弥坂。 比良の視線を避けたがっている谷。 「すまない、もう終わる」 いつになく大人しい二人に不思議そうにしていた柚木は……おもむろに比良に肩を抱かれ、どきっとした。 「明日から俺の家に柚木が泊まりにくるんだ」 『出張の間、比良くんと一緒にいます』 柚木は六月中に覚悟を決めていた。 教えてもらった携帯に電話して櫻哉に返事を伝えると、後日、彼は何度目かの訪問となる柚木家へやってきた。 『お会いするのが遅くなって申し訳ありません、比良柊一朗といいます』 七月の初め、期末テストの最終日、比良も同行して柚木の両親と初顔合わせを果たした。 『マストになったとしても決して傷つけません。抑制剤(サルベーション)が効かない自分にとって柚木歩詩(かれ)だけが唯一の救いなんです』 「家に泊まる?」 「リスクが高すぎるわ」 予想外のお泊まり宣言に谷も阿弥坂も険しい表情と化した。 さっきまでの大人しい態度が豹変し、威嚇並みの鋭い視線を比良に投げつけてきた。 「また階段のときみたいにユズが酷い目に遭ったらどうするつもりだ」 「比良クンの意向でも、さすがに賛同できない」 二人とも<マストくん>の洗礼を受けていた。 その危険性を知っているからこそ、彼のテリトリーに踏み込んだ柚木が凶暴な狂気の餌食になることを危ぶんだ。 ……いや、それだけではなかった。

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