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エピローグ
「お前イチゴ嫌いだろ」
「どうして? なんでわかるの?」
「お前のことなら何だってわかるさ」
「すごい」
「無理して食うな、柚木にやれ、それかベランダから放り投げろ」
「なげたら、いちご、かわいそう」
「お前に喰われるよりマシさ。もしかしたら地面で生き延びて芽を出すかもしれない」
「わぁ」
シャワーを浴び終えた柚木は歯磨きしながらスマホをぼんやり眺めていた。
「あ」
一つのニュース記事の見出しに視線が引っ掛かった。
海外の映画祭で日本の俳優が最優秀主演男優賞を受賞したという速報であり、記事全体にざっと目を通し、それからまたじっくり最初から最後まで読み返した。
ーー夢が断たれるかもしれない絶望が常にすぐ背後に横たわっていた。
ーーその恐怖が僕の野心をここまで駆り立て、熟成させた。
ーー絶望がなければ希望も生まれなかった。
ーーマストは僕の過渡期そのものであった。
「おめでとうございます」
下顎に滴り落ちそうになっているミントの泡は放置して、かつてブログを読んでいた俳優の健闘を心から称えた。
「ん?」
ケージで眠る愛犬にもう一度「おやすみ」と声をかけ、明かりを全て消し、いざ寝室の扉を開けようとして柚木は首を傾げた。
ボソボソと話し声が聞こえてくる。
先にベッドに入った比良が眠る我が子に話しかけているのか、そこまで気にも留めずに閉じられていたウォールドアを開いた。
(あれっ!?)
時刻は零時前、サイドテーブルに置かれた間接照明の薄明かりに浮かび上がる、こざっぱりとした寝室。
起きているどころか、夕犀はベッドの上でお絵描きしていた。
隣で横向きになって添い寝する比良は眠っているようだ。
「夕犀、いつ起きたの、もう夜遅いよ、お絵描きだめ、ねんねしなきゃ」
厳選されたお気に入りの色鉛筆を手元に置き、俯せになってスケッチブックを広げていた夕犀は、慌てて駆け寄ってきた柚木をじっと見上げた。
「まま、へっぽこ」
いたいけな唇が発した予想外の悪口に柚木は膝から崩れ落ちかける。
「まま、うれし?」
「は……はひ……?」
「へっぽこって、いったら、まま、うれしいって。よろこぶって。<うさぎくん>いった」
まるで夢の中の出来事みたいな報告に大きく見開かれた奥二重まなこ。
そして。
柚木は父親譲りの黒曜石の瞳にそっと笑いかけた。
「みんなでおねんね、しよう、夕犀」
夕犀はこっくり頷いて「おかたづけ、する」とベッドから降りようとし、時間も時間なので我が子を制して柚木が速やかにお片付けに至った。
スケッチブックに描かれた絵。
真ん中に大きな丸が一つ……どうやら顔のようだ、上には縦線で髪の毛、鼻と口らしきものもダイナミックに描写されている。
赤い色鉛筆で塗り込まれた二つの目が印象的だった。
「おやすみ、夕犀」
比良とは反対側の隣に添い寝して、柚木は、すでに寝息を立てている夕犀の小さな頭を撫でる。
「俺も撫でろ」
まだ点されているおぼろげな光の中に落ちた声。
完全に寝入った我が子の向こう、色違いのチェック柄のパジャマを着て横向きの寝相でいる彼に柚木は視線を向けた。
「俺にさわって?」
久し振りの再会となる赤い目。
大学時代から現れる回数が徐々に減っていき、だが気紛れに目覚めては夕犀に妙ちくりんなことを吹き込んだり、斜め上のカウンセリングを施しては相談者に青天の霹靂をお見舞いしたりと、相も変わらず自由気ままな暴君。
柚木のもう一人の想い人。
ベッドの上で柔らかな衣擦れの音色を紡いで柚木は手を伸ばす。
ぐっすり眠る夕犀のすべすべな頬を悪戯にツンツンしている彼の、その黒髪を我が子越しに愛おしげに梳いた。
「ただいま、柚木」
「おかえり、マストくん」
end
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