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「ラットって、この一時間でいきなり? だって、さっきまで普通だったのに、いつも通りだったのに」 「今すぐ早く帰るんだ」 「待って待って、一人にしていけないよ、えっと……!」 (ラットになったときの対処法は!?) 保健委員だろ、思い出せ、えーと、とにかくオメガは近づいたらだめ、先生を呼ぶ、隔離する、ひどい興奮の場合は自傷行為に走る危険もあるから、なるべく同じアルファのオトナが付き添う……。 「自傷行為って」 柚木は青ざめた。 閉ざされたドアにしがみつき、部屋の中で苦しんでいるだろう比良に呼びかけた。 「比良くん、自分のこと傷つけてないよね!? 大丈夫だよね……!?」 返事はなく。 荒々しい息遣いと共にドアを引っ掻く音が向こう側からした。 (だめだ、このまま帰れるわけがない) 柚木はダッフルコートのポケットに入れていた携帯を取り出すと、今、最も頼りになる相手に電話をかけた。 (お店の中にいて気づくだろーか) 祈る思いで相手の声を待つ。 呼び出し音がやけに大きくゆっくり響いて聞こえた。 そして。 「もしもし」 鼓膜に届いた眞栖人の声に柚木は束の間の安堵を得た。 (ッ……ばかやろ!! ここで安心してどーする!!) 「眞栖人くん!? あああ、あのねっ、今、比良くんがっ、ラットにっ」 「滑舌が悪いし早すぎてよく聞こえない、なんだって?」 「ッ……比良くんがラットになっーー……」 唐突にドアが開かれて柚木は心臓が止まるかと思った。 携帯を持っていた手を握り締められ、その強さに狼狽え、思わず取り落としてしまう。 「比良くんーー……」 瞳孔の拡大した黒曜石の瞳に唖然としていたら捕まった。 加減を忘れた両腕に抱きすくめられた。 (熱い) ブラウンニット、フランネル素材でチャコールグレーのテーパードパンツを履いた比良の抱擁に柚木は言葉を失った。 上半身に巻きついて食い込む無慈悲な(かいな)。 骨身が軋んで喉奥から声が洩れた。 「う……ぅぅ……」 それでも比良は抱擁を緩めようとしなかった。 玄関ホールの薄明かりが僅かに届く廊下でオメガを掻き抱いた。 「……柚木……」 自分よりも息苦しそうに呻吟するアルファに柚木は思いきり眉根を寄せる。 為す術もなく本能に翻弄されて苦しむ番の片割れ。 胸が張り裂けそうになる。 何もできない無力な自分が心底情けなくなる。 (……ううん、もしかしたら……) 慈悲なく我が身を捕らえる両腕の檻の中で柚木は呟いた。 「比良くんの好きにしていいよ」 (それで比良くんがちょっとでも楽になるのなら) 「おれ、それくらいしかできない、ごめん、へっぽこで」 比良の熱が伝染したように、否応なしに全身を火照らせた柚木の精一杯の呟きは獰猛な唇に半分近く齧り取られた。 「柚木?」 携帯越しに眞栖人に呼ばれる度に心臓が真っ二つに裂けていくような気がした。

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