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 1  その日、僕たちは北海道にある僕の叔父さんの家に向かっていた。僕の叔父さんは、ペンションを経営していて、去年までは叔父さん夫婦とその息子(つまり僕の従兄弟だ。)、それから数人の従業員で営業していたんだ。だけど、夏休みが近づいて、さぁこれから書き入れ時だってときに、いきなり従業員が二人も辞めてしまったらしい。困った叔父さんは、母さん(おじさんから見れば実の姉だね。)に相談した、らしい。らしいというのは、僕は叔父さんから何の説明も聞いていないからだ。部屋で寛いでいたら、いきなり母さんが部屋に入ってきたんだよ。しかもノックもしないで。全く、年頃の息子の部屋に入るということの重大さが、あの人にはわかっていないんだよ。最低限ノックをして、ちょっと時間を置いてから入ってきてもらわないと。いろいろと準備が必要なんだから。ほら、片付けとか、掃除とか、隠蔽とか、片付けとか。これは全国のお母さん方に声を大にして言いたい。死活問題なんだから、本当に。  で、部屋に入ってきた母さんこと我が家の頂点さまは、僕にある勅令をお出しになったんだ。「あんた、夏休みやることないでしょ? 手伝いに行きなさいよ。」ってね。もちろん、僕だって暇じゃあない。色々とやることがあるんだから。色々と。だがしかし、うちではお母上様のお言葉は絶対。母さんの「何馬鹿なこと言ってんのよ。どうせ、小暮君とぐだぐだしてるだけでしょ?」の一言によって、僕は見事に撃沈。結局素直に承ったわけなんだ。  こんな言い方をするといかにも嫌々請け負ったみたいだけど、そしてあながち間違っていないけれど、楽しみではあるんだよね。なんたって北海道。一生のうちに一回は必ず行ってみたい、魅惑の土地。これが楽しみでないというのか。そんなわけがなかろう!今日の朝、空港についてから、今ペンションまでのバスに揺られているこの瞬間も、僕のテンションは上がりっぱなしさ!もう楽しみで楽しみで。叔父さんがうちに来たことはあっても、叔父さんのところへ行ったことは無かったもんだから、期待に胸がはち切れそうだよ。まぁ、働きに行くんだけどね。そこが面倒臭い。  でも、さすがは魅惑の土地、北海道。地元に居たら暑くて仕方がないこの時期だというのに、空気は清々しくて心地よい。車窓から見える景色も長閑で素晴らしいね。何処までも続く平野、これが地平線というものか。ぽつり、ぽつりとある民家たち、そして薄らと雲のかかった高い、高い青空。見ているだけで自分の心が洗われているみたいだ。いや、もう言葉も満足に紡げないくらいだよ。誇張でなくずっと見ていられるね。いや、本当に。  僕がそうやって、窓の外の雄大な景色を堪能していると、肩に何かが乗せられた。 「先輩、いったいいつまで景色なんか見ているんですか。俺、もう飽きたんですけど、退屈なんですけど。」と、その何かは声を発した。しかも無駄にいい声で。  なんてことを言うんだ! 僕は肩に乗せられたものを振り払い、後ろを向いた。 「あ、飽きたってこんなに、こんなに雄大で素晴らしい景色を目の前にしているというのに、なんで! そんな心ないことが言えるんだよ!」 まったく、そんなこと言う奴の気がしれないね。そう奴に言ってやると、奴は口の端を軽く上げ、僕の目を覗き込むようにして口を開いた。 「まぁ、確かに、ここの景色は素晴らしいとは思いますけどね。ずっとは見ていられませんよ。だって、同じような景色が続いているだけじゃないですか。特に目を引くようなものもありませんし。いいですか、先輩。感動というものは長続きしない、一過性のものなんですよ。ある一瞬だけ人の心に浮上して、すぐさま流れ去ってしまうものなんです。持続力のある感動なんて、この世界に在りはしないんですよ。俳諧師が句を詠むのも、カメラマンが写真を撮るのも、小説家が風景を描写するのも、画家が風景画を描くのも全てが全て、感動というものが、ほんの一時的なものにすぎないからです。」  僕は反論したかった。あぁ、とてつもなく反論したかったともさ。が、両肩に手を置かれ、目を覗き込まれた状態で、平然と反論できる奴が果たしているのだろうか。否、いない。絶対、いない。  僕が何も言えずに固まっていると、奴―小暮誠一―は、僕から離れて、向かいの席に座りなおした。日の光が窓から降り注ぎ、奴の艶やかな黒髪をきらきらと輝かせている。  小暮は、僕の一つ下の後輩だ。僕は大学で、ミステリー研究会という胡乱なサークルに入っているんだけど、小暮もそこに所属していたりする。まぁ別に、ただそれだけの繋がりという訳でもないんだけど。ちなみに、どうして僕と小暮が一緒に仲良くバスに揺られているのかというと、それはもちろんあのお方の鶴の一声のせいに他ならない。それに、旅は道連れ、世は情けと昔の人も言ったし、働き手は多いにこしたことはないからね。どうせ暇な夏休みを過ごす予定だっただろうこいつを、慈悲深さに溢れているこの僕が誘ってあげたのさ。  しかしまぁ、相変わらず絵になる奴だなぁ。まるで彫像かのようにすらりと長く、ガリガリでもムキムキでもない、程よく筋肉のついた手足。背丈も高く、軽く180㎝は超えるだろう。着やせするタイプなのか、服を着ているとひょろひょろとした印象を持たれるが脱ぐとすごい。腹筋は割れているわ(しかも六つに)、無駄な贅肉が一切ないわ、という所謂いま流行りの細マッチョを体現しているのだ。それだけでも充分妬まし…、いや羨ましい限りだというのに、コイツの場合はそれに加えて、顔がとにかく良い。掘りの浅いしょうゆ顔で、THE日本人フェイスの僕とはまるっきり違って、掘りが深くどことなく異国の雰囲気を醸し出している。鼻筋がすっと高く、唇は薄く常に皮肉気に歪められている。二重瞼の瞳は切れ長で理知的な光をいつも湛えている。少し冷たい印象も受けるけれどだがそこがいい!! と大学の女子たちには大好評らしい。さらに言えば、頭もよろしくて運動神経も抜群だ。  …妬ましい。妬ましすぎる。もはや憎しみを通り越して殺意すら生まれるね。あぁ、妬ましや。妬ましや。……憎い。  僕がこの溢れ出す嫉妬と妬み、怨念を込めて奴に呪詛を送っていると、 「それにしても、先輩の叔父さんのペンションっていったいどんな所なんですか。」そう、小暮が尋ねてきた。ちっ、この程度の呪詛ではやはり駄目か。今度は藁人形でも使おう。 「叔父さんのペンション? あー、いい所らしいよ? 僕は行ったことないんだけど、母さんの話では、高台にあって景色がすごい綺麗なんだって。」  前に一度、叔父さんのペンションに家族旅行で行ってみようって話になったんだけど、残念なことに、本当に残念なことに、僕はその年、学校の階段から転がり落ちて、足の骨をボッキリ折ってしまったんだ。さすがにそんな状態では行けなくて、その話はお流れになった、はずだった。…はずだったんだ。だけど、骨折してからすこし経った、ある暑い夏の日のことだった。その日、僕が松葉杖をつきながらリハビリから帰ってくると、…家には誰もいませんでした。飼っている犬(愛犬、虎太郎、♀。犬なのに何故虎? とか、そもそも女の子なのにその名前はどうなの? とかの疑問は、全て母さんの「面白いから」の一言で黙殺されました。)でさえ居なかった。混乱した僕の目に一枚のメモが入ってきた。居間の卓袱台の上に無造作に置かれたそれを僕は慌てて読んだ。それは母さんの字だった。内容は、ペンションに行くことにしたから、留守番よろしく、の一文だけ。確かに一応松葉杖で動けるけど、料理もまあまあ出来るけど、…怪我人だよ? 普通置いてく? つか旅行行きます? 薄情すぎるよ、母さん。何泊とかも書いてないし。てか、せめて誰か一人は残れよ。  結局、母さんたちは、五日後に帰ってきた。朗らかにただいまー、といわれた時はさすがに殺意が芽生えました。まぁ、北海道のお土産がおいしかったからいいんだけどね。というわけで、僕は叔父さんのペンションに行ったことないんだけど、母さんたちから聞いた話をまとめると本当にいい所らしい。 「あと妹曰く、料理がすんごいうまいんだって。料理は叔母さんが担当してるみたいだから、期待していいと思う。」 「料理が上手なんですか?」 「うん、僕ペンションの料理は食べたことないけどさ。叔母さんの手料理なら何回か食べたことがあるんだ。すっげえうまいよ。うちの母さんとは比べ物にならない位、ほんとマジうまいから。」 「先輩のお母さんの料理だって、うまいじゃないですか。」 「それはお前がみちるさんのあの極上の料理を食べたことがないからだ。一回でも食べたら、もう母さんの料理をうまいなんて言えなくなるぞ。うちの母さんとみちるさんの料理は、まさに月とすっぽん、提灯に釣り鐘、箸に虹梁、豚に真珠だよ。」  ん? 豚に真珠はちょっと違ったかな。 「豚に真珠とは、どんな貴重なものでも、その価値のわからない者には無意味であることの例えなんで、月とすっぽんとは意味がまるっきり違いますよ。先輩。」  ……。あーくそ!本当、一々むかつく奴だよ、コイツは。そこは分かっていても指摘しないのが、後輩のあるべき姿、礼儀作法だろうがよ。空気読めよ空気。世の中はそうやって、穏便かつ円満にまわっているんだぜ? 「というか、叔母さんのこと『みちるさん』って呼んでるんですね。」 「あぁ、うん。ちょっと恥ずかしいけど。」  はじめて会った時に、名前で呼んでねって言われて、それからずっとみちるさんって呼んでいるんだ。さすがに恥ずかしいから、他人の前では叔母さんって呼ぼうとしてるんだけどね。たまにボロが出ちゃうんだよな。 「次は、留辺蕊、留辺蕊、車内事故防止のため、お降りの際は、バスが止まってから席をお立ち下さい。次は、留辺蕊、留辺蕊…。」  お、次だ。結局、行きの景色を十分に堪能できなかった…。全部の小暮のせいだ。 「おい、次で降りるからな。準備しとけよ。バス停から結構歩くみたいだし。」  ガッタン。バスが少し乱暴に止まり後部座席のドアが開く。僕は自分の荷物を持って急いでバスから降りた。爽やかな風が僕のうなじをくすぐる。うーん、気持ちの良い風だ。クーラーの風よりもこっちのほうが好きだなぁ。クーラー苦手なんだよね。もしや北海道は僕にとって楽園なのか?  それにしても、あいつ遅いなぁ。僕たち以外に降りる人いなかったはずなんだけど。どうしてこんなに遅いんだ? そう思って、僕は後ろを振り向いた。…そこには、ゆっくりゆっくり、優雅にバスから降りてくる小暮の姿があった。  なんでそんなにゆっくりなんだよ。世界はお前を中心に回っているとでも言いたいのか。はっ、むかつくわー。湧き上がるイラつきを押し込めて、僕は奴に声をかけた。 「お前、速く降りろ。ペンションまで、まだまだあるんだからな。」  なんせ、叔父さんのペンションは、小高い丘の上にあるらしいからね。さっき、地図で確かめてみたら、バス停から結構歩くみたいだ。実は、来る前に電話したときに叔父さんが迎えに行くよって言ってくれてたんだけど、いくら甥とはいえ僕たちはいわばアルバイトのようなものだし、わざわざ歩きで迎えに来てもらうのも忍びないからね、丁重に断ったんだ。でも、実はちょっと後悔してる。思っていたよりも歩くみたいだし。なんか迷いそうだし。母さんに聞いた話だと、道は一応舗装されてるらしいんだけど、暗くなる前にペンションに着きたいんだよなぁ。ここら辺、ケータイの電波が途切れ途切れにしか届かないらしいんだよ。ソ○トバンクだけじゃなくて、ド○モでも。そんな状態で、暗くなっちゃったら危ないよね。見た感じ、鬱蒼としてて、なんか猪とか出そうだしさ。いや、まだ昼過ぎなんだけど念には念を入れときたい。という訳で、僕たちにはゆっくりしている暇なんてないんだよ。さっさと降りて来い、小暮。  小暮がようやくバスから降りたのを確認して、僕は、ペンションへと続く道を歩き始めた。…こういうと、まるでなにかのRPGのようだな。もちろん、僕が勇者で。  ペンションまでの道のりの景色もとてもきれいだった。生い茂る木々たち、甘い香りを漂わせるくちなしの花、そして抜けるように青い空。全部が全部とても素敵だった。それらを堪能する余裕なんて僕にはなかったけどね!  やばいよ、山道をなめていた。これはガチで迎えが必要だったかもしれない。足が痛い。 「やっと…、着いた…。」  バスを降りてから2時間ぐらい歩いて、ようやく叔父さんのペンションに到着した。いくら涼しいとはいえ、日差しが痛いくらい強く降り注いでいる中、2時間近く歩いてきたもんだから、汗を吸って湿ったシャツが肌に張り付いてすごい気持ち悪いし、足がパンパンに腫れちゃって痛いったらない。やっぱ、迎えに来てもらうべきだったかなぁ。 「先輩って、体力ないですよね。もう疲れたんですか。軟弱ですね。」  僕が、顎を伝って落ちる汗を手の甲で拭っていると、ふと小暮がそうのたまってきた。うわあ。すごいむかつくー。何がむかつくって、こういうことを無表情で言ってくるところがむかつく。これが、笑いながらじゃれあうように言われてたとしたらここまでむかつかないのに。いや、それでもむかつくことはむかつくんだけどね。でもまだむかつかないと思う。 というか、2時間だぞ、2時間。アスファルトのきっつーい照り返しの中、2時間近く休みもせずに歩いてきたんだぞ。汗もかかず息も切らしていないお前がおかしいんだよ、この筋肉ダルマが。だいたい、お前、僕と同じようにインドア派だろ。なんで、そんなに筋肉がついているんだよ。おかしいだろ。マジその筋肉そいでやりてぇ。 「先輩、インターフォン押しますよ?」  同じ人間、男という生物なのに、どうしてこんなにも違うんだ。本当に不公平だ。顔がかっこよくて、体も引き締まってて? さっさとメタボになりやがれ。お願いだから。 「押しましたからね、先輩。」  だいたい、『天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。』なんて有名な格言があるというのに、こんな不平等がまかり通ってていい物なのか。いや、良いわけがない!もしこの世に神様が存在するのなら、僕は断固抗議したいね。どうしてこの世の中には、顔が整っている奴とそうでない奴がいるのかって。その違いによって世界中のどれだけの男たちが、悲劇の主人公となっていることか。三日三晩語っても、語りつくせないよ。 「先輩?聞いてます?」 「おわっ!」  目の前にいきなり人の顔が現れた。…まぁ、小暮なんだけど。ドアップに耐えられる顔ってのは、本当に羨ましい限りだ。羨ましい、恨めしい、羨ましい。 「いきなりなんだよ、びっくりするだろ、もう。」 「いえ、何度も呼んだんですけど、反応がなかったんで。」  そ、そんなにボーとしてたかな? いけないいけない。どうやらいつのまにか小暮がインターフォンを鳴らして、叔父さんが出てきてくれていたらしい。ごめんね叔父さん。 僕が謝ると叔父さんは笑いながら、「いいよいいよ。それよりも、バス停から歩いて来たんだよね。大丈夫? 迷わなかった?言ってくれたら荷物くらい持ったのに。」と言ってくれた。僕が自分から断ったというのに心配してくれるなんて、叔父さんは本当に優しいお人だなぁ。 「大丈夫ですよ! 僕、こう見えても体力あるんです。あれくらい、全然平気ですよ。」  小暮が、嘘付けという顔でこっちを見ているけど、そんなことは気にしない。 「そうなんだ、まぁ若いし当たり前か。今回は無理にお願いしてごめんね、優斗君。」  うっ、しまった。自分の首を絞めてしまったかも。 「い、いや、全然! 大学生の夏休みなんて、無駄に長くて暇なだけですから! 是非こきつかってください。」 「そういってもらえると助かるなぁ。」  そういって叔父さんは目じりを下げて笑った。あぁ、まるで菩薩のようだ。 「あ、で、こっちにいるのが後輩の小暮です。」僕は小暮を指差した。  奴は指差している僕の指を押しのけて、「始めまして。優斗さんの後輩の、小暮誠一といいます。今回は、貴重な経験をする機会をいただき、本当にありがとうございます。よろしくお願いします。」と、いつもは見せない爽やかそうな笑みを浮かべて言った。…この、猫っかぶりめが。 「小暮君かぁ。こちらこそよろしくね。そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。」  違うんです、叔父さん。こいつは緊張しているとかじゃなくて、ただ大きな猫を何匹も被っているだけなんです。だまされないでください! …なんて、言える訳もない。まったく、これだから外面のいい奴は。なんか知らんけど、いつの間にかあの母さんにも気に入られてるし。今回の旅行だって、実の息子の僕よりも、赤の他人の小暮の心配しかしてなかったぞ、あの人。それでいいのか、人の母親として。 「あ! ごめんね。自己紹介してなかったよね。ボクは優斗君の叔父で、このペンションのオーナーをしている緑川明です。今日から一ヶ月、よろしくね。」  そういうと叔父さんはくるり、ときびすを返して、ペンションの扉を開けた。そして、こっちを振り向きこういってくれた。 「ペンション『風の丘』にようこそ! 優斗君、小暮君。君たちを歓迎するよ。一緒に頑張ろう!」  さぁ、入って入って。そう叔父さんに促されて、僕と小暮はペンション『風の丘』の中に入った。

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