5 / 14
3
3
僕と小暮がペンションに来てから、二週間が過ぎた。はじめのうちは色々失敗しちゃったんだけど、だいぶ仕事にもなれてきて、ようやく楽しむ余裕が出てきたところだ。二週間すごしてみて、夏のペンションが修羅場だということよくわかった。クレームやら到着の知らせやらの電話がひっきりなしに鳴るし、料理は一度に大量に作らなきゃいけないし、子供連れが多いからちょっと気を使うし。折角みちるさんと一緒に仕事しているというのに、落ち着いて話もできやしないよ。まぁ、毎日あの天使のような笑顔を拝めるのは、至極幸せなんだけどね。
小暮はというと、あいつはさっさと仕事のノウハウを覚えやがって、一人、俺は余裕ですけどなにか? みたいな顔していた。ぱっぱと自分の仕事を終わらせては、みちるさんや葛西さんの仕事を率先して、手伝っているようだ。けっ、紳士ぶりやがって。お前いつもはそんなに優しい奴じゃないだろうよ。いつもはもっとこう、酷薄で、女子に対して冷たい態度とってんじゃん。僕は知ってるんだからな。いや、まぁ別に女性だけ手伝ってるわけじゃないみたいだけど。僕も手伝ってもらったし。小暮め、重たい荷物をあんなに軽々と持ちやがって。あれじゃあ僕が貧弱みたいじゃないか。あそこは、先輩である僕を立てるべきだろ。ほんとわかってない奴だよ。
さて、そんな修羅場も過ぎ、今日からは団体のお客さん一組がとまりに来る以外、宿泊客はいないらしい。昨日までいたお客さんたちも、もうチェックアウトを終えて、出て行った。叔父さん曰く、毎年この時期はそんなに宿泊の予約がないらしい。ファミリー層がメインターゲットのペンションだからね、夏休みが終わりに近づけば、自ずとお客さんも減少するみたい。まぁ確かに、このペンションの周りには、大自然しかないし、町まで行くためには、一日に一本しかないバス(しかもバス停までかなり歩く)に乗らなきゃいけない。だからキャンプ感覚で来る家族のお客さんがダントツで多いんだ。次点で暇をもてあました大学生。車で来ることもできないしね。
昨日までは結構な人数泊まっていたから、今日はその片付けと準備で従業員全員てんてこ舞いだったりする。朝から、ベッドメーキングをして、部屋の空気を入れ替えて、昼食、夕食の下ごしらえをして、と僕も忙しく働いていた。小暮は、叔父さんが麓の店で買ってきた食材や備蓄品を倉庫や、僕達が泊まらせてもらっている物置部屋に運んでいるようだ。時々、両手に馬鹿でかい段ボールや袋を抱えた小暮を見かけた。そして奴を見かけるたびに、横でみちるさんが頬を紅色に染めて「かっこいいわねぇ。」と吐息とともにつぶやいていた。ほんと、想いで人を殺めることができたらどんなにいいか。
正午を少し過ぎたとき、件の大学生グループがペンションにチェックインした。男女二人ずつの四人グループ。ダブルデートとかなのかな。
「すみません。予約しておいた南野ですけど。」
声をかけて来たのは、明るい茶色の髪をした青年だった。鼻筋がすっと通っていて、イケメンの部類に入るんじゃないだろうか。服装やしゃべり方からそこはかとなく感じるチャラさ加減がいただけないけれど。
「あ、はい。南野さまですね。…こちらが201号室と202号室の鍵になります。部屋まで、従業員がご案内いたしますので、少々お待ちください。」
僕がそういうと、彼は後ろで待っていた他の三人の方へ振り返った。思わず僕も釣られて、そっちへと目線を向けた。うわぁ、レベル高いなぁ。二人ともとっても可愛い。一人の女性は、目に痛い金髪にピンク色のメッシュを入れている。服装もパンク系で近寄りがたい雰囲気を漂わせて入るけれど、顔つきがとってもキュート。パッチリとした二重の大きな瞳に、小さいけれどぷっくりと柔らかそうな唇。りんごのように朱に染まっていてふっくらとした頬。それらが小ぶりな顔の中に愛らしく納まっている。背丈も小さくて、それがより彼女の魅力を引き立たせている。メイクが少し濃いのが難点だけど、それでもなおにじみ出る生来の可愛らしさ。もし僕にあんな恋人がいたら、きっとサークルの友達や小暮に自慢しているんだろうなぁ。そして、もう一人。もう一人の女性が視界に入ったその瞬間、僕の体に電撃が走った。きれいだ…。なんて美しい人なんだろう。もう一人の女性とは対照的に、背が高く、艶やかで豊かな黒髪を腰ぐらいまで伸ばしている。そして、きめの細かそうな雪のように白い肌。切れ長で涼やかな目元、マッチが三本ほど載せられそうに長い睫毛、そして目元には泣きボクロが二つ。まさに、大和撫子って感じだ。スタイルもいいなぁ、胸なんて大きすぎることもなく、かといって小さいこともなく、僕的にちょうどいい大きさ。服越しだけど、形もよさそう。あれはおそらく、補正ブラやパットでごまかしてないな。いい感じで慎ましやかというか、美乳というか。大きさよりも形重視なんだよね、僕。それにしても本当にきれいな人だ。こんなに美しい人初めて見たよ。是非ともお近づきになりたいなぁ。
「えぇ、二部屋しか取ってないの?」
僕がボーっと彼女の御姿を見ていると、そう非難するような声が彼女たちから聞こえてきた。
「別にいいだろ? 一応男と女で分けてあるんだし。二人部屋でも。ホームページとか見た感じ、結構部屋広そうだったし。なぁ?」
そう受付にやってきた青年―南野さん―が弁解した。
「う、うん。普通に二人泊まっても大丈夫そうだったよ。」
南野さんに促されて横にいた男性がそういった。派手な髪色の南野さんとは違って、彼のほうはいかにも日本人ですっていう黒髪に、いかにも日本人ですって言う醤油顔。チャラそうな南野さんの横にいるからなのか、どことなく薄らぼんやりとした印象を受けてしまう。
「別に私は、部屋の広さのこといってるんじゃないの。」
と、泣きボクロが印象的な大和撫子が言った。けっこうきつい性格なんだろうか。
「じゃ、何がそんなにいやなんだよ。」
「悪いけど私、他人と一緒の部屋じゃ落ち着いて眠れないのよ。だから一人部屋にしてほしいんだけど…。」
「お前、そんなこと一言もいってなかったじゃねぇか。先に言えよ!」
南野さんが大きな声で言うと、彼女もむっとした顔をして、食ってかかろうとした。
「ま、まぁまぁ。聞かなかった僕たちも悪いし、ね?」
一触即発の空気を打ち破ったのは、あの薄らぼんやりとした彼だった。彼が困り顔で南野さんをいさめると、少しは冷静になったのか、南野さんは僕のほうを向いて罰の悪そうな顔をした。
「まぁ、それはこっちも悪かったよ。でも、今更いわれたってどうしようもないだろ?我慢しろよ。」
少しばかり落ち着いた声で、南野さんはそう彼女に言うが、彼女はむっとした顔のまま、
「いやよ。二人部屋なんて、絶対、嫌」といった。あくまでも頑なな彼女の態度が癪に障ったのか、南野さんはまた声を荒げようとする。
「お前ほんといい加減に―」
「ちょっと落ち着きなよ、はじめ。ここで言い争っててもどうにもなんないでしょ。迷惑だし」
南野さんの言葉を途中でさえぎり、愛くるしい顔立ちのほうの女性が言葉を発した。可愛らしい見た目に反さず、声もまるで鈴を転がすようで、可愛らしかった。
「とりあえずあたし、受付の人に空いてる部屋ないか、聞いてくるね。空いてたら、新しくそことればいいし、空いてなかったら、あたしが南野たちの部屋に行くよ。…それでいいでしょ? ほのか。」
彼女は、そう問いかけると、頑なな態度を崩さなかった女の人(ほのかさんというらしい。きれいな人と言うのは、名前でさえ、美しいものなのだろうか。名は体を表すとは正にこのことだね。)は、こくりとうなずいた。
「じゃあ、あたし聞いてくるから。その間に少しは頭冷やしといてね、ふたりとも。」
彼女はそういうと、こちらに歩いてくる。後ろでは、あの冴えない彼が二人のご機嫌をうかがっていた。
「すみません。あの、もう一部屋空いてたりします?ちょっと急に一部屋必要になっちゃって…。」
困ったように眉を顰めながら、彼女は僕に尋ねた。
「あ、はい、空いてますよ。隣の部屋でよろしいですか?」
鍵を取り出しながら、そう聞くと、彼女は暫し逡巡した。
「あの、できれば、少し離れた部屋にしてもらえませんか。できればで良いんですけど…。」
「え? あ、はい。畏まりました。えっと、じゃあ、こちら、208号室でいかがでしょうか?」
僕がペンションの見取り図を見せながら提案すると、彼女は「あ、はい。それでお願いします。すみません。わがままいっちゃって。」と言った。その顔の可愛いことといったら!見た目に反して気遣いもできるし、礼儀正しいし、可愛いし、ほんと高得点だね。彼氏はいるんだろうか。一緒の男たちのどっちかと付き合ってんのかな? だとしたら羨ましすぎるんだけど。…いや、僕だったらこんな好条件の物件絶対に見逃さないし、きっといるんだろうなぁ。残念だ。
「はい、ではこちらが208号室の鍵になります。」
頭ではいろいろ考えつつ、通常業務をこなす僕。我ながらすごいと思っていたりする。
「ありがとうございます。あ、あとぉ、案内の人って後どれくらいで来ます?」
彼女は、鍵をその紅葉のように小さく愛らしい手で受け取りながら、満面の笑顔でそう聞いてきた。
「すみません。もうすぐ来るとは思うんですけど…。少々待ってもらっても大丈夫ですか?」
僕はしどろもどろにそう答えた。なんたって、受付の対応でクレームが起きるか起きないかが決まるからね。慎重に対応しなきゃいけないのさ。まぁ、こんなに可愛らしい人が、そんなひどいこと言うとは思わないけどね!
「すみません。遅くなりました。それでは、部屋までご案内いたします。」
彼女がさらに僕に話しかけようと口を開いたとき、荷物もち兼案内役の小暮がやってきた。その瞬間から、彼女の興味は、小暮に移り変わってしまったみたいだ。くそう、やはり倒すべきはイケメンか。
「あ、ありがとうございます。あの、お名前、聞いてもいいですか?」頬を染めながら訪ねる彼女。僕の前では、そんな顔しなかったじゃないか。よく見たら、ほのかさんまでポーっと小暮を見てるし。男性である南野さんと薄らぼんやりした彼は、少しつまらなさそうな顔をしていたけど。…同士よ。南野さんは、分類イケメンだからあれだけど、もう一人のほうは、僕と同じ地味面だから(言ってて悲しくなる)、素直に仲間だと思えるよ。一緒にがんばりましょう!
「あ、小暮。ちょっと。」
なんて馬鹿なこと言ってる場合じゃないや。ちゃんと業務内容を伝えなくちゃ。僕が手招きをすると、小暮は、すみませんと一礼をしてから、やってきた。…別に邪魔するのが目的だったわけではないよ。半分ほどは。
受付カウンターの前までやってきた小暮に、
「もう一部屋追加されたから、そっちも案内よろしくな。208号室だから。」といった。
小暮はひとつ頷くと、ロビーの床に置かれていた千晴さんたちの荷物を担ごうとした。すると、女性二人が焦ったように、
「あ、そんないいですよ! 重いですし。自分たちで持ちますから、ね? はじめ、ハルくん。」
「そうですよ。一人で四人分の荷物なんて、大変だと思います。そうよね?南野君、北方君。」と言った。水を向けられた南野さんと北方さんは、女性二人の勢いに慄いた様に「あ、あぁ、そう、だな。」「うん。まぁそうだよ、ね。」と賛同する。
それに異を唱えたのが小暮だった。
「いえ、大丈夫ですので。お客様のお手を煩わせるわけにはいけませんし。」
「あら、そう?」
「小暮くんがそういうんだったら、お願いしようかな…。」
小暮のその言葉を聞くや否や、女性陣二人は手のひらを返したように前言を撤回する。まさに鶴の一声だ。
南野さんと北方さんは難を逃れ、幾分かほっとしているようだ。いや、その気持ちはよくわかる。世の一般的な男性というものは、女性の無言の圧力には悉く弱いものなのだから。アレを振り切れるのは一部の選ばれし人間のみだ。…小暮みたいなね。が、しかし。二人は難を逃れられたけれど、今度は僕にその火の粉は降りかかってきたのだ。
小暮が、さっきの気障ったらしい言葉を発して、この案件はもう収束すると思いきや、女性陣二人は、今度は僕に対して、何らかの目配りをしてきたのだ。あぁ、これがデートのお誘いとかだったら、どんなによかったことか。実際は、何ちんたらしてんだよ。暇なんだろ? さっさと手伝えや。といった視線なのだった。まぁ、僕くらいにもなると、もっとマイルドにかわいらしく意訳することなんて容易いことなんだけどね。
「あ、僕も手伝いますよ!」
どんどんと重くなる周囲の空気に耐え切れず、僕はそう提案した。とたんに視線が僕からはずれ、肩の辺りの空気がすっと軽くなった気がした。いささかほっとして、僕は肩甲骨の辺りをぐりぐりと少しだけ動かした。
「じゃあ、先輩はこっちの荷物持ってください。あとは俺が持つんで。」
小暮が大多数の荷物を持ってこっちに指示してきた。…気を使ってるのかもしれないけど、非力呼ばわりされてる気がして、なんかむかつくなぁ。まぁ良いけど。
そんなこんなで、僕と小暮で荷物を持って二階へと上がり、南野さんたちを部屋へとご案内した。
「えっと、201号室がこちらの部屋で、202号室がこちらになります。」
そう言って、南側にある角部屋とその隣の部屋を指し示す。それを聞いた南野さんが、手に持っていた鍵の一つをさっき受付にやってきた彼女に渡した。
「ほい、202号室の鍵。オレら角部屋な。人数多いし。」
「ちょっと、勝手に決めないでよ。」
渡された彼女は、可愛らしく頬をぷくりと膨らませて、南野さんに抗議した。
「なんだよ。こっちの部屋がいいのかよ。」
「んー、別にどっちでもいいんだけどぉ。勝手に決められるのは嫌っていうか。」
そういいながら彼女は、上目使いで南野さんを見つめた。うーん、可愛い。是非ともあの目で見つめられたいものだ。というか、もしかして、彼女は南野さんのことが好きなのだろうか。むしろ付き合ってる?
「ならいいだろ。オレとハルの男組が角部屋で。」
と思ったけど、南野さんの態度を見る限り、恋人ではないような気もするなぁ。恋人なら、同じ部屋で泊まろうとするだろうし。なんか面倒くさげだし。
「…まぁ、いいけど。」
愛らしいふくれっ面のまま、彼女はそういった。つやつやと桜色に輝くくちびるをツンと突き出しながら、彼女は南野さんの手から202号室の鍵を奪い取って、がちゃがちゃと乱暴に開けた。
「ったく、何なんだよ。分けわかんねぇ。」
それを見た南野さんも、ぶつくさ文句をたれながら201号室の鍵を開ける。二人ともそのまま部屋に入っていこうとするので、僕は慌てていると「この荷物はどちらに持っていけばいいですか。」と小暮が聞いた。
「え、あっ、すみません。えっと小暮さんが右手に持ってるやつが千晴―202号室の奴なんで、そっちに置いてください。で、えーと。」
南野さんはそういいながら僕の胸につけてある名札を見つめてくる。
「並木さん? の持ってる奴がオレとハルのなんで、こっちの部屋に入れてもらってもいいですか。」
どうやら、僕の持ってる荷物は全部男性側のものだったようだ。あとは全部女性側の持ってきた荷物だということになる。いや二人分だと考えても、大荷物すぎやしないか?小暮の持っている大きなキャリーバック二つに加えて、さっき202号室の鍵を開けた彼女なんか、なんだかよくわからない形状の黒いバックを手に提げてるしさ。
確かに二泊三日だし、着替えとか必要にはなってくるけども、あんなに大きなキャリーバックで来る必要あるのかな。うちの母親や妹とかもそうだけど、女の人の荷物って異様に多いよね。前にどうしてそんなに多いのって聞いたら、乙女の秘密が詰まってるのよって言われた。…母さんに。乙女って年じゃないだろうに、何を言ってるんだろうこのおばさんって思ったけど、賢明な僕は何も言わなかった。何も言わなかったはずなのに、良い笑顔のあのお方に、ヘッドロックをかけられたのを今でもよく覚えている。あれは痛かったなぁ。
そんなことを思いながら、黙々と荷物を部屋に運び入れる。と言っても、少し大きめのボストンバック二個だけなんだけど。まぁ、男の荷物なんてたかが知れてるしね。ちょっとの着替えと、暇つぶしのゲーム機くらい。あ、でも南野さんは、スキンケア用品も持ってそうだな、そういうのに気を使ってそう。肌もっちもちだし。ちなみに小暮の肌も、もちもちのつやつやだ。アイツもきっと風呂上りに、せっせと肌のお手入れとやらをしているのだろう。イケメンを保つのも大変だ。その点、僕は自然派だからね。固形石鹸でがしがし洗った後は、タオルでふくだけさ。きっともう一人の男の人も同じはずだ。
「それじゃあ、お荷物はこちらに置いておきますね。」
どさりと荷物をテーブルの上に置きながら僕がそういうと「あ、ありがとうございました。」と薄らぼんやりした方の彼がお礼を言ってくれた。うん、こういう接客業をやると、お礼言われるのが一番うれしいんだよね。別に言われなくても、むかついたりはしないんだけどさ、モチベーション的には言われた方が上がるってもんだよね。ちょっと気恥ずかしいけど。
ぺこりと一礼をしてからドアから出ようとして、ふと何か忘れているような気がした。うーん、他に言うことあったような気がする…。えっと、なんだったかなぁ。最近物忘れがひどいんだよな。まさか若年性認知症じゃないよな。聞いた話によると、結構20歳とか、僕と同じ位の人にもなってる人多いらしいし。えーと、あ、思い出した。
「えっと、本ペンションでは、原則朝食と夕食は食堂で、従業員とお客様全員で一斉にとる形になっています。ですので時間になったら、一階にある食堂までお願いします。」
そう、このペンションでは、基本的にご飯を全員で食べることになっているんだ。その方が一気に作れる分、みちるさんの負担も減るしね。アットホームなペンションを目指してるってのもあるらしいし。それを聞いたとき、ペンションていうか、民宿っぽいと思ったのは、叔父さんたちには内緒だ。
「夕食は、何時からなんですか?」と、南野さんが聞いてきた。
あ、忘れてた。どうしよう、健忘症かな。
「えーと、夕食は七時からです。あと、朝食は八時からになります。」
うん、あとは言い忘れないよな。大丈夫なはずだ、たぶん。よし、それじゃあそろそろ退散しよう。いつまでも部屋にいたらダメだろうし。
もう一度お辞儀をしてから、今度こそドアを開けて外に出た。そういや小暮は、と思って姿を探すと、ちょうど202号室から出てくるところだった。後ろには、あの美しい女性もいた。一緒だったのかよ、まぁ確かにお客様を廊下で待たせるわけにはいかないかもしれないけど。なんか腑に落ちないなぁ。
どうやら、これから彼女を部屋に案内するみたいだった。ついでだから、僕もついて行こうかな。別に、下心とかがあるわけではないんだけど、いやほんとにないんだけど、暇だしね。と思いながら、小暮と彼女の後をついて行く。208号室は、さっき案内した二つの部屋から、少しだけ離れたところにある。ちなみにこの部屋も角部屋だ。つまり、さっきの201号室とはちょうど対角線上にあることになる。一番遠い所と言われてパッと思いついたのが、この部屋だったんだ。
彼女が部屋のドアを開けて、中に入る。小暮も荷物をもって中に入ったので、僕も一緒に入った。この二週間で見慣れたはずの内装なんだけれども、ただ彼女がいるというだけで、何やら特別なものように感じた。まるで、西洋の舞踏会の会場のように、煌びやかに輝いて見えたのだ。美人というものは、ただそこにいるだけで、その場を美しく変えてしまうものなんだな、としみじみ思った。僕がそう物思いにふけっている間に、小暮は荷物を置き、事務的に夕食の時間と、このペンションのルールを言った。お前、もうちょっと愛想よくやれよ。接客業なんだから。いや、笑顔は浮かべているんだけど、僕にはわかる。あれは上辺だけの薄っぺらい笑顔だ。心からの笑顔ではない。もうちょっとくらい、感情を込めてもいいんじゃないだろうか。
まぁ、アイツが心からの笑顔を浮かべていても、鳥肌が立つだけなんだけどね。
事務連絡を終えた小暮と揃って礼をしてから、名残惜しく部屋をでる。あぁ、後ろ髪をひかれる気分だよ。もっと居たかったなぁ。願わくばお話がしたかった。僕が彼女の荷物を持ってさえいたら、そうできたかもしれないのに。小暮の野郎、ちゃっかりおいしい役回りやりやがってからに。全く。
でもまぁ、夕食になればまたお会いできるんだし、交流を深めるのはその時にでもいいかな。うん。性急すぎてもあれだし、急がば回れとも言うしね。
よし、そうと決まれば、決戦のときに備えて今から英気を養わなきゃな。ちょうどそろそろみちるさんと、料理の準備をする時間だし、可愛らしくて神々しい僕の天使様のあの笑顔でも見て、癒されよう。そうしよう。
ともだちにシェアしよう!