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 6 「先輩、もう朝ですよ。起きてください。」  僕は、小暮のそんな声で目が覚めた。まだくっつきたがる瞼を無理やり開くと、目の前に小暮の顔があった。…こいつの声で起こされるなんて、今日は目覚めが悪いな。なんだかすごい疲れた感じだ。寝た気がしないよ。  欠伸をしながら、グンっと伸びをすると、バキバキと背骨が音を立てた。寝違えちゃったかなぁ。昨日は急いでベッドに入ったから。僕は自分のベッドから降りると、寝間着にしている高校のジャージに手をかけた。 「よく寝てましたね。もう、朝食の準備はじまってますよ。」  小暮はそういいながら、ベッドのシーツの皴をぴんと伸ばして、掛布団をたたんだ。  え、もうそんな時間かよ。くそう、昨日に引き続き、とんだ失態だ。これじゃあ、みちるさんに呆れられちゃうじゃないか。このペンションでの僕のたった一つの癒しだというのに。みちるさんに嫌われてしまったら、もうここにいる意味もなくなるよ。そう思いながら、自分の出せる最高速度で着替えを終え、顔を洗うのもそこそこに僕は部屋を飛び出した。  たく、小暮ももう少し気を使って、早く起こしてくれたらよかったのに。こんなにギリギリじゃなくてさ。気の利かないな。  勢いよく階段を駆け下りて(というか転げ落ちて)、僕は食堂のキッチンへと向かった。 「っ、すみません! 遅くなりました!」  そういいながら、キッチンに入ると、そこにはもう食欲をそそる料理が所せましと並べられていた。しまった! 遅かったか。これで、このペンションでの思い出は終わった。  そう思って、悲嘆に暮れていると、息を切って駆け込んできた僕に気が付いたみちるさんが、近づいてきた。あぁ、もうだめだ。絶対呆れられた。絶対嫌われた。いくらみちるさんが天使か女神のように心優しくたって、今回は絶対怒ってるに決まってる。もう絶望しかない。あ、でも、みちるさんの怒った顔か、…きっと奇麗だろうな。美しい人はどんな表情でも美しいもんな。それを見られるのもいいかもしれないな。 「おはよう、優斗くん。」  みちるさんが僕にそう話しかけた。あれ、全然怒ってる声じゃないぞ。不思議に思って、俯けていた顔を上げると、そこにはまるで聖母のように慈悲深く微笑むみちるさんがいた。 「お、おはようございます。みちるさん。…あの、すみません。朝食の手伝いできなくて。」 「ふふ、いいのよ。今日は一人でもできる量だったし。寝過ごしちゃったのかな? ずっと慣れない仕事してもらってたもんね。だから少しだけ休んでもらおうと思って、昨日から優斗くんと小暮くんの仕事を減らしてたのよ。…伝わってなかった?」  そんなこと、一言も言われていないぞ。 「あれ、おかしいなぁ。昨日の夕食の後に、小暮くんに伝えたんだけど。…きっと伝え忘れちゃったのね。ごめんね、優斗くん。」 「い、いえ。あの、ありがとうございます。なんか気を使わせちゃったみたいで。」 「いいのよ。ここで働いている間は、みんな家族のようなものだし、優斗くんは私の大切な甥っ子だもの。」  私の大切な甥っ子。私の大切な…。おそらく僕はこの言葉一生涯忘れないだろう。僕はみちるさんの言葉を一言一句漏らさぬように心に刻んだ。 「あ、でも折角だし、手伝ってもらっちゃおうかな。実は、ちょっと手が足りなくて。いいかな?」  そういいながら、みちるさんはお茶目に微笑んだ。 「もちろんです。何でもやりますよ。」  みちるさんに大切なんて言われた今は、俄然無敵な感じだ。今なら、どんな困難にだって立ち向かえる気がするよ。 「ありがとう。じゃあ、この料理をテーブルに運んでもらってもいいかな。」 「はい、お安いご用です!」  今日の朝食は焼きたてのライ麦パンと自家製バターと李のジャム。それと新鮮なサラダと野菜たっぷりのミネストローネだ。朝食にしては、なかなか量があるけれど、どれも絶品だから、ついついお代わりをしてしまうという、魔の料理だ。  料理の入った皿をテーブルに運び、最後に熱々のミネストローネの入った鍋を、そのまま食堂へと運び入れる。スープは温かくないといけないからね。  大きな寸胴鍋を持っていくと、ちょうど南野さんと西条さんが、仲良く食堂に入ってくるところだった。 「お、今日もうまそうですね。」  南野さんが鼻をひくひくと動かしながら、僕にそういってきた。 「ちょっと、まず挨拶しなさいよ。もう。」  西条さんはそう南野さんに注意をすると、南野さんは「はいはい。」と面倒臭そうに答えてから僕の方を向いて「おはようございます。」と言った。それを満足そうに見届けたあと、西条さんも、 「おはようございます! 並木さん。でも、本当に今日もおいしそう!」と、満面の笑顔を浮かべていった。 「お、おはようございます。すぐよそうので、座って待っててください。」  僕がそう返すと南野さんたちは昨日と同じ席に座った。少し遅れて、小暮、夏目君、葛西さん、あおるが次々に食堂に入ってくる。  あとは北方さんと東堂さんだけだ。 「あいつ、まだ寝てんのかよ。」と南野さんがぼやいていると、すぐに北方さんがやってきた。北方さんは寝癖がぴんぴんと跳ねていて、まだまだ夢の中って感じだ。だけど、いざ席について並べられている料理のにおいをかいだ瞬間、パチリと目を開けた。昨日もそうだったけど、意外と食い意地が張ってるんだな、この人。いかにも小食ですよって体型してるのに。痩せの大食いってやつなのか。うらやましい。 「あれ、ほのかは? 一緒じゃないの?」  不思議そうに西条さんが、北方さんに尋ねた。 「え? まだ来てないの? さっき一応部屋のドアをノックした時はいないみたいだったから、もう来てるんだと思ってたんだけど。」  北方さんも不思議そうに返した。 「おかしいね、東堂さん、いつも早起きなのに。」 「うん…。でも、昨日着いたばかりだし、ここに来る途中でレポート終わらせるために徹夜したって言ってたから、もしかしたらまだ寝てるのかも。私、起こしてくるね! 先食べててください!」  そういって、西条さんが立ち上がると、明さんも、 「あ、じゃあ私たちもいきますよ。もしかしたら何かあったのかもしれませんし。合鍵が必要になるかもしれませんしね。」と言って立ち上がった。オーナーの明さんにそんな雑用をさせるわけにはいかない。名誉挽回だ。 「明さん、僕が行きますよ。」  僕が椅子から立ってそういうと、明さんは「そうかい? それじゃあお願いしようかな。鍵は受付にあるからね。」といった。よしよし、昨日の失態は返上してやるぞ。そう思って一人意気込んでいると、 「あ、じゃあ俺もついていきますよ。先輩一人だと、何かあった時どうにもできないですし。」と言いながら、小暮が手を挙げた。僕一人じゃどうにもできないってなんだよ。僕だって男なんだから、そこそこ力はあるし、応急処置だって保体の授業で、一通りは習ってるんだからな。 「小暮くんも行ってくれるなら、安心だね。それじゃあ、二人にお願いするよ。」  明さんもなぜかホッとしたような顔でそういった。僕ってそんなに頼りなく見えるんだろうか。ちょっとショックだな。  意気消沈しながら僕が受付に行き、208号室の合鍵をもって二階へ行くと、すでに西条さんと小暮がドアの前にいた。 「ほのか、起きてる? もう、朝ご飯だよ! ねぇ、穂乃花!」  そういいながら、西条さんはドンドンとドアを叩いていた。その表情は、不安そうで、ドアを叩く手は真っ赤になっていた。 「すみません! お待たせしました!」  僕がそう言いながら、二人に近づくと、西条さんは「あ、並木さん。その、さっきから何度も呼んでるんですけど、全然反応がなくて、あの子、眠りが浅いから、こんなに騒いでたらすぐに目が覚めるはずなのに…。」と、泣きそうになりながら言い募った。その言葉を聞きながら、僕は急いで鍵を開けようとした。鍵をもつ手が震えて、上手く開けられない。焦って、何度も鍵を落としてしまう。すると見かねた小暮が、僕から鍵を奪って、ドアを開けた。  ふわり、と甘い匂いがした。東堂さんが昨日つけていた香水の匂いだ。その匂いにつられるように中に目をやる。…ベッドの上に足が見える。どうやら、東堂さんはいるようだ。 「ほのか! 大丈夫?」  そういいながら、西条さんは、部屋に入っていく。続くように、僕と小暮も部屋に入った。 「ほのか?」  ベッドのそばまで行った西条さんが、口元を抑えてへたり込んだ。その視線は一点を見つめていた。  その視線を追って、僕も西条さんが何を見つけたのかを知った。そこにあったのは、頭から血を流し、倒れこむ、東堂さんの姿だった。  咄嗟に口を押える。血はもう固まりきっていて、彼女の顔には全く生気がなかった。素人の僕が見ても、死んでいることが、容易に、わかった。  気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。押えこんだ口の奥から、胃液が逆流してくるのが分かった。 「うえっ。」  耐え切れず、床に胃の中身をぶちまけてしまう。甘い香りと、酸っぱい胃液の匂いがまじりあって、また、吐き気が込み上げてきた。  西条さんは、相変わらずへたり込んだままだ。茫然とただ虚空を見上げている。ベッドの上には、彼女がいて、僕たちの方を見据えていた。その瞳に見つめられながら、僕の意識は薄れていった。

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