9 / 14

 7  暗い。暗い。真っ暗だ。どうしてこんなに何も見えないんだろう。ふわりと鼻先を甘い花のような匂いが擽った。クンクンと鼻を蠢かす。彼女の匂いだ。そういえば、昨日もつけていたっけ。甘くて爽やかな香りが彼女にはよく似合っていると思ったのを、覚えている。  ドロリと黒の世界が赤く染まる。粘着質のある液体が、少しずつ視界を塗り変えていく。さっきまで香っていた、甘い匂いを覆い尽くすように、プンッと鉄のような匂いが世界に蔓延する。むせ返るようなその匂いに、思わず鼻に手をやる。けれど、覆った手からもその匂いが香った。見ると、掌が赤く染まっていた。気が付くと、あの粘りっ気のある液体が喉の下まで迫っていた。いつの間に。そう驚いている間にも、それは嵩を増していった。口に錆びた味が広がる。遂に頭の天辺まで覆われ、思わずギュッと目をつぶった。あぁ、赤に溺れていく……。  冷たいものが額に触れた。それがなんだかすごく心地がよくて、僕は、固く閉じた瞼を緩めた。 「あ、優斗くん、目が覚めた? 大丈夫? 気持ち悪くない?」  優しげな声が、僕の横から聞こえる。目だけを動かして、その声の主を探すと、ベッドの傍に、その可憐な顔を心配そうに歪めたみちるさんが座っていた。どうしたんだろう?そう思いながら、横たえていた体を起こそうとすると、すっと、背中に手が当てられて、起き上がるのを助けてくれた。お礼を言おうとその手の持ち主に目を向けると、そこにいたのは小暮だった。なんだ、お前もいたのかよ。みちるさんだけだと思ってたのに。 「大丈夫ですか、先輩。」  小暮は僕が自分の存在に気がついたことを察したのか、そう言いながら僕の額に手を当ててきた。小暮の手のひらはひんやりとしていて、なんだかとても気持ちがよかった。 「熱は、ないみたいですね。」 「本当? よかった。」  小暮の言葉に、みちるさんはほっとしたような顔になって、僕の手をぎゅっと握ってきた。 「あ、あの、ここは…。」  口を開くと、まるで久しぶりに話したかのように、喉がひりついた。思わず、げほげほと咳をすると、 「はい、どうぞ。」と、握っていた僕の手を離したみちるさんが、スポーツドリンクのペットボトルを差し出してくれた。 「あ、ありがとうございます。」 飲み物はありがたいけれど、そのために離されたみちるさんの手のぬくもりが名残惜しかった。てか小暮、お前が取れよ。なんのためにそこにいるんだ。このうどの大木め。僕がジトリと奴を睨むと、何を勘違いしたのか、小暮は僕からペットボトルを奪い取り、蓋を開けて、僕に手渡してきた。そんなこと頼んでないんだけど、と思いながら、僕はみちるさんの持ってきてくれたペットボトルの口に唇を寄せた。じんわりと薄ら甘い味が、口内に広がる。スポーツドリンクを一気に半分ほど飲み干して、一息を付く。 「落ち着きましたか? 先輩。」  飲みかけのペットボトルを受け取って、蓋を閉めながらそう尋ねてきた小暮に対して、 「ああ、うん、なんとか。」と僕は返した。落ち着いてから周りを見渡すと、ここが自分の部屋だということに気が付いた。あれ、どうしてこんな所で寝てるんだろう。まだ、仕事中のはずだけど…。 「先輩、吐いて倒れたんですよ。覚えてますか?」と、淡々と小暮が説明をする。  吐いて、倒れた? 僕が? どうして。そこまで考えたとき、僕の脳裏に、あの映像が浮かび上がった。ベッドの上で、横たわっている女性。まるで死んでいるように生気のない顔。シーツにこびり付いた、赤茶けた染み。ポカリと軽く開いた口から見え隠れしている、柔らかそうな舌。そして、見開いたまま、こっちを見据える、濁った瞳。 「あ…。」  ゴプリとせっかく飲んだスポーツドリンクが逆流しそうになって、慌てて口元に手を持っていこうとする。駄目だ、また吐く。  ふわりと、柔らかい布が僕の口を押さえた。甘い、いい香りがする。その香りを嗅ぐと、胸元までこみ上げていた吐き気が、すっと落ち着いていった。  その布を口から離すと、それはみちるさんのハンカチだった。淡いピンク色の布地に、可愛らしい小鳥のイラストがプリントされている。石鹸の匂いと、花みたいな優しい匂い。それを吸い込むだけで、気持ちが落ち着くのがわかった。 「大丈夫、気持ち悪かったら吐いても大丈夫だからね?」  そう言いながら、みちるさんは洗面器を僕の手元に置いた。 「だ、大丈夫です。もう吐き気はなくなったんで。…それよりも、その、と、東堂さんは…。」  またあの映像を思い浮かべてしまって、自分の体を抱きしめる。ガタガタと震えが止まらなかった。 「あ、あのね。」  みちるさんが口ごもる。よく見ると、みちるさんの顔も青白くて疲れているようだった。 「亡くなっていました。何か重いものに頭をぶつけてしまったようです。俺たちが部屋に入ったときには、もう。」  みちるさんに代わって小暮がそういってきた。なくなった…。死んだってこと、だよな。分かりきっていたことを改めて認識する。あれが、死。ドラマやなんかでたくさん死体の映像は見てきたけれど、そんなものとは比べ物にはならないぐらい、アレは恐ろしい、気持ちが悪い、モノだった。もう、警察は来ているんだろうか。もう、犯人はわかったんだろうか。 「あの、警察の人はなんて…。」  恐る恐るその言葉を口にすると、みちるさんは頬に手を当てて、 「それがね、まだ警察の人には通報してないのよ。」といった。  え? まだ、通報してない? あんなに明らかに殺されていたのに、どうして。 「実は、固定電話が繋がらなくて。ここは携帯も使えませんし、今連絡が取れない状態なんです。」  小暮のその言葉に、みちるさんもこくりと頷いた。 「いま、明さんが車で麓の町まで行ってくれてるから、すぐに来てくれるとは思うんだけど…。」  そういってみちるさんは窓の外に目をやった。つられて僕も窓の方を向くと、外はどんよりと暗くなっていて、山の木々を風が強く揺らしているのが見えた。あれ、朝はあんなに晴れていたのにな。 「なんだか、天気もおかしいのよね。いきなり暗くなってきて、風も強いし。」  ぽつり、みちるさんが不安そうに呟いた。確かに、このペンションは山の中腹にあるから、台風が来てしまうとしばらくの間、外界とは連絡が取れなくなってしまっても不思議じゃない。だから、台風が来る危険性があるときは、早めに避難を開始したりするらしい。でも、昨日僕が見た限りでは、台風のたの字もなかったはずなんだけどなぁ。これが俗にいうゲリラ豪雨というものなのか。それだったら、すぐにあがる可能性もあるかな。 「一応、万が一のときための備蓄はあるから、ある程度は大丈夫だと思うんだけど、不安よね。」 「そうですね、ゲリラ豪雨とかですと、土砂崩れが起こる可能性もありますし。」 「そうねぇ。少し注意してたほうがいいかしら。」  みちるさんと小暮がそう話すのを聞きながら、僕はほっと胸を撫で下ろした。警察はいつ来るんだろう。不安だなぁ。  そう思っていると、みちるさんが、 「ふふ、優斗くんも大分顔色がよくなってきたわね。じゃあ、私下で色々準備しなきゃいけないから、小暮くん、あとよろしくね。」といって、僕の傍から立ち上がった。あぁ、僕の癒しが行ってしまわれる。 「あ、僕もう大丈夫なんで、手伝います!」  そういって起き上がろうとすると、みちるさんはやんわりと僕の肩を押さえた。 「優斗くんはゆっくり休んで? 準備は私たちだけで十分できるから。」  みちるさんは優しくまるで子供に言い聞かせるように微笑んで僕に言った。 「ね? お願い。」  こてんと首を傾げてみちるさんは上目遣いで、僕を見つめた。 「…はい。」 「うん、よろしい。しっかり水分とってね。」  その言葉を最後に、みちるさんは部屋を出て行ってしまった。さっきのみちるさん、可愛かったなぁ。あそこまで顔が近づいたのは本当に久しぶりだ。あんなみちるさんの顔が見られるなら、倒れるのも悪くないかも。 「先輩、顔が気持ちが悪いことになってますよ。」  小暮が僕の顔をじっと見つめてボソリと呟いた。気持ち悪いって失礼だな。これでも僕はポーカーフェイスを気取ってるんだから。 「先輩って本当に顔に出やすいですよね。これからが不安ですよ。」と小暮が馬鹿にしたように笑った。…僕ってそんなにわかりやすいのかな。確かに、今までうそをついたときもすぐにバレてたかも。い、いや、それは母さんや妹が異様に察しがいいだけさ。 「うるさいなぁ。不安ってなんだよ、不安って。お前に心配してもらう筋合いないぞ?」  お前は僕の母さんか。いや、うちの母さんはきっとそこまで心配しないだろうけど。なんとなくイメージで。 「そうですか?」 「そうだよ。」 「…そうですか。それならいいんですけどね。」  そういうと小暮は、僕に背を向けて自分のベッドの方へ近づいていった。ったく、なんか最近あいつ、過保護じゃないか? 僕の方が断然年上で人生経験も豊富なんだけど。別にお前に心配されなくったって、全然平気だっての。 「あぁ、でも。もしこれから先輩が困ったら、俺が絶対に助けてあげますよ。俺は、絶対先輩の味方でいますから。だから、先輩は安心して、そこに居てくださいね。」  僕が心の中で小暮に対して文句を言っていると、小暮がいきなりそういってきた。 「…い、意外とお前って僕のこと好きなんだな。」 「好きですよ? だって、先輩ですから。」 小暮は自分のベッドにドサリと音を立てて座って、ニッコリと笑いながらそう言った。 ……びっくりした。小暮は僕のこと嫌っていると思ってたのに。尊敬とか、全然してないんじゃないかと思ってたのに。お前、僕のことそんなに尊敬してくれてたんだな。くそう、なんだか可愛いじゃないか。小暮の癖に。 「そ、そっか。僕も、嫌いって訳じゃないよ、…お前のこと。」ボフリと枕に顔を押し付けてそう言った。むかつくし、正直ずっと一緒には居たくないけど、まあ、可愛い後輩だとは、思ってるよ。 「知ってますよ。」  僕のこの渾身の告白を聞いて、なんでそんなに澄ました顔でいられるかな。もっと照れてもいいと思うんだけど。言ったこっちが恥ずかしいじゃないか。いや、告白ってか、別に特別な気持ちとかは全くないんだけどね、ものの例えというか。 「冗談ですよ。…大分いつもの調子に戻ってきましたね。そろそろ、下に行きますか?」 「下?」 「他の人は全員一階で待機しているんですよ。先輩も、誰かの傍にいた方が気が紛れるでしょうし。」  確かに、ここで籠っているよりも、みちるさんたちの傍にいた方が気が楽かもしれない。少し離れているとはいえ、二階には東堂さんの部屋があるし、そこにまだ、彼女はいるのだから。 「そう、だな。何か手伝うことあるかもしれないし。」  床に足をつけると、ひやりとした感覚が足の裏から背筋へと通っていった。ぞくり、と体が震えた。  一階に降りてロビーに行くと、そこにはソファにうずくまって顔を膝に埋めた西条さんと、彼女に寄り添うように南野さんと北方さんが座っていた。僕たちが近づくと北方さんがこちらを振り向いた。 「あ、並木さん。もう大丈夫なんですか。」 「はい、もう大丈夫です。すいません、心配かけちゃったみたいで…。」  心配そうに声をかけてきた北方さんに僕が答えていると、ぎゅっと顔を膝小僧に押し付けていた西条さんが、のろのろと顔を上げた。目の周りは痛々しく腫れていて、今朝あったときにはバッチリメイクされていた化粧も、すっかり落ちていた。…初めて西条さんのすっぴん見たけれど、やっぱり可愛いな。むしろ化粧しているよりも、こっちのほうが僕は好きだなぁ。どうして女の人って化粧をするんだろうね。絶対しないほうが可愛いのに。化粧されると、せっかくの肌の質感とかが見えなくなっちゃうしさ。  西条さんは僕と小暮を一瞥すると、またその顔を自分の膝へと押し付けた。あの明るい西条さんがこんなに憔悴するなんて、よっぽどショックだったんだろうな。…当たり前か。彼女は、親友の死体を直接見てしまったんだから。会って一日の僕でさえ、気持ち悪くなって倒れちゃうくらいだ。仲のよかった西条さんたちは、たぶん僕が想像もできないくらいの衝撃を受けたんだろう。 「すみません。千晴さん、相当ショックみたいで。ずっとこんな感じなんです。」  申し訳なさそうに北方さんが言った。 「いやしょうがないですよ。あんなことがあったんですから。」 「はい。…正直、ボクも実感、ないんです。彼女が、もう、いないなんて…。」  北方さんは、ロビーの吹き抜けの方を仰ぎ見ながらそう言った。東堂さんの部屋がある辺りだ。 「オレも。オレだって、信じらんねぇよ。アイツが、穂乃花が、死んじまったなんて、さ。だって、昨日まで普通に会ってたんだぜ? 昨日まで、普通に喋ってて、普通に…。」  南野さんがぽつぽつとそういい募って、唇を血がにじむほど強くかみ締めた。二人とも、昨夜起こってしまった事を受け入れきれてないみたいだ。でも、それは僕も同じだ。僕だって未だに彼女が死んでしまったなんて、信じられない。どうしてこうなってしまったのだろうか。どうして。 「…並木さん、すいません。ちょっとボクらだけにしてもらってもいいですか?」 「そうですね。じゃあ俺たちは、あっちの従業員ルームにいますので、何かあったら受付の上にあるベルで呼んでください。ほら行きますよ、先輩。」 「あ、ああ。それじゃあ、失礼します。」  小暮に連れられて、西条さんたちの傍から離れる。僕たちが出てきた方とは反対の階段の近くにあるドアを開けて、従業員ルームへと入った。ここは、ボイラー室とリネン室、そしてあおるの部屋以外は何もない。こんな所に入って、いったい何をするって言うんだろう。僕がそう思っていると、前を歩いていた小暮が振り返った。 「先輩、先輩は、この事件、どう思いますか。」  小暮が発したその言葉を解釈するのに、数秒かかった。 「どう思うって、な、何が、だよ。」と返す僕の声は微かに震えていた。 「いえ、ですから、これが殺人かどうかってことです。」  殺人か、どうか? そんなのはわかりきっていることだ。 「そんなの、殺人に決まってるじゃないか。あの状況見たら、誰だってそう思うだろ。」  そうだよ、彼女が殺されてしまったのは明白だ。凶器だってローテーブルの上に置かれていた灰皿だし、そんなものが偶然頭にぶつかるなんてありえない。彼女が床に寝そべっていたのだったら、話はまた別かもしれないけれど。あの時彼女はベッドの上にいた。だから事故なんて可能性は絶対にあるわけないんだ。 「そうですね、俺もそう思います。これは事故なんかじゃ有り得ない。」  小暮も僕の意見に同調する。 「それにしても、図らずともクローズドサークルになってしまいましたね。」  クローズドサークル、推理小説ではおなじみの言葉だ。絶海の孤島とか山荘で外界との連絡手段が途絶えてしまった状況。…確かに、今のこの状況と同じだ。まさか自分が体験することになるなんて思いもしなかったよ。 「不謹慎かもしれませんが、ミステリー好きとしては、こう血が騒ぐものがありますね。実際に殺人事件、それもクローズドサークルなんてシチュエーションに遭遇するなんて。そうは思いませんか先輩?」  そう言って微笑む小暮を見つめながら、僕は眉を寄せた。いくらミステリー好きだといっても、実際に死体を見てこんな発言ができるなんて、こいつ、どこかおかしいんじゃないのか? ミス研の活動でも、死体の描写について熱く語ってきたり、犯人の殺人方法にけちをつけたりと、僕からしてみれば常軌を逸した行動をしていたけれど、ここまでとは思っていなかった。 「だからですね、先輩。この事件捜査してみませんか。俺たちで。」 「捜査って…、僕たちが?」 「ええ、この悪天候じゃ、警察だってすぐには来られないでしょう。こうしている間にも、証拠は刻一刻となくなっているかもしれないのに。だから、せめて俺たちの手で事件を捜査しておくんです。」  小暮はもっともらしく語った。確かに、さっきまで何とか持っていた天気はとうに崩れて、雨脚は強くなる一方だった。大き目の雨粒が窓を強く打ち付けている。これじゃあ、ここまで来ることもできないだろう。だけど、一般人の僕たちが勝手に現場を捜査していいんだろうか。 「もちろん、捜査した内容は、警察に詳らかに話します。先輩、今は一刻を争う状況なんです。ごちゃごちゃ保身を考えている暇なんてないんですよ。」  なんだか小暮の言い分が至極全うなことのように聞こえてきた。いつ来るかもわからない警察をただぼんやりと待つよりも、今自分にできることを精一杯やったほうがいいのかもしれないな。それに、ここで僕が断ったって、こいつは自分ひとりで勝手にやるに決まってる。それで何かあるよりは、僕も一緒に行動して監視していた方がいいだろうし。 「そう、だな。このまま待っていても何も始まらないし、何かやっておかなきゃ、な。」  僕の返事を聞くと、小暮は満足そうに笑って、 「先輩なら、そういうと思っていました。それじゃあ、まず何をしましょうか。」といった。 何をするか、か。うーん、やっぱり警察でもない僕らが東堂さんの死体や部屋を調べるのはやめたほうがいいと思うんだよな。だとすると残る選択肢としては―。 「まあ、西条さんとかの話を聞くくらいじゃないか? 今僕たちにできることってさ。」  あんな状態の西条さんたちに話を聞くのは心が痛むけれど、それしか選択肢はないと思う。考えてみれば、僕って東堂さんについて何も知らないんだよなぁ。知ってることといえば、西条さんと同じ高校だったってことと、南野さんと北方さんと中学が同じだったことぐらいだ。あと、ちょっと意地っ張りだってことくらいだろうか。あの三人のなかに犯人はいないと思うけれど、一応色々と話を聞いておくべきなんじゃないかな。 「俺も同じ考えです。何はともあれ情報を得たいですしね。それに、どうやらあの人たちには隠していることがたくさんあるみたいですから。」  そういえば、昨日も小暮はそんなことを言っていた。西条さんたちは色んな問題を抱えているって。あの時は小暮の思い過ごしだって思ったけど、もしかして本当にそうなんだろうか。隠し事、してるようには見えないんだけどなぁ。

ともだちにシェアしよう!