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第2話 猟犬様より、愛を込めて②
軍に所属する者で、猟犬ライの名を知らぬ者はいない。
野獣のように美しく頑強な肢体に、高い知性と獰猛さを兼ね備えた最強の猟犬は、軍屈指の英雄でありながら、軍始まって以来最大の災厄でもあった。
悪魔のような残忍さと冷酷さは、敵だけではなく味方にまで向けられ、お気に入りの玩具を見つけると壊れるまで弄び、執拗に嬲る。力だけの獣とは違い、暴力的な衝動さえも飼い慣らした狂犬を止めることは誰にもできない。また、他に替えのいない有能さ故に排除することもできずにいた。
何よりも恐ろしいのは、犠牲者の末路を知っていてもなお、彼の逞しさと強さ、そして美しさに惹かれ、魅了される者が後を絶たないことである。
弱肉強食の掟が支配する組織の中で、間違いなく彼だけが頂点だった。
……だからどうしたと言うんだ!
『ライさん』が去った後、無事で良かった、でもこんなことしちゃだめだ、と皆に心配され、忠告を受けたが、希望は怒りに燃えていたのであまり聞いていなかった。
俺はあの黒い猟犬を許さない! 希美をいじめるなんて、悪い奴に決まっている。しかも、あとで聞いたらあいつは最近希美ばかり狙っているとみんな心配していたらしい。
許せない。誇り高き猟犬の血を引くこの俺を、食べ物で黙らそうとしたのも許せん! 今度こそビシッと言ってやるんだ! あ、でも、お礼は言わないといけないな。
キジはとても美味しかった。
猟犬となる為に軍の士官学校へ入学した希美を追って、希望も一緒に家を出てから数年。実家以外であんなに上等なキジを食べたのは久しぶりだった。さっぱりしているのに噛む度に旨味が滲む。弾力があって、力強い噛み応えが心地よい。
でも、許さないぞ! と希望はお口いっぱいに肉を頬張って、キリリッと目尻を吊り上げる。
『キジ美味しかったです。ご馳走様でした。希美をイジメるな!』
……よし、これだ! いくぞ!
「希望? どこいくの? 待って、もうあの人に関わんないで! 俺は大丈夫だから! それより希望が狙われ……ちょ、まっ、はやっ……希望――!!」
希美の静止の声を振り切って、希望は駆け抜けていった。
***
「ライさん!!」
帰投した隊列を囲む数人を押しのけて、希望はライの前に飛び出した。
奥にいたライは僅かに顔を上げて、大きな耳をビッと立てる。そして、耳と視線を希望のいる前方へと向けた。下を向いていた黒い尾が起き上がり、ゆっくり揺れている。
睨む合う希望とライの間には誰もいなくなって、成り行きを見守るように少しずつ離れていった。
ライはゆっくりと尻尾を振りながら歩き出した。希望は対抗するように、尻尾をバシバシ!と力強く振ると、大きく息を吸って、発育の良い胸を膨らませ、口を開いた。
「キジ美味しかったです! ご馳走様でした! 希美をいじめ、びゃああ!?」
途中で、ズシンッ! とやや乱暴に何かが投げつけられた。希望は思わず飛び上がって一歩下がる。
出鼻を挫くような不意打ちに、尻尾は丸まって小さくなる。けれど、投げつけられたものを確認せずにはいられなくて、恐る恐る顔を上げた。
希望がいたところには、大きな猪が横たわっていた。片目に傷を負い、全身も傷だらけだが鋭く太い牙を持ち、太い針のような毛皮に覆われている。
すでに事切れているというのに、なんと恐ろしい形相だろう。目があった気がして、希望は「くぅぅん……」と、か細く鳴いた。
***
猪は怖かったが、脂が乗っていて大変美味だった。箸が止まらないとはこのことだ。
真っ白な脂と鮮やかな赤が美しく、お腹いっぱい食べた。
でもどうしよう、と大きく満たされたお腹を撫でて、希望は考える。
『猪とても美味しかったです。ご馳走様でした。あんなに大きくて怖いものを倒すなんて、すごいですね。まだいっぱい残っているので、これ以上は結構です。
しかし! 言っておきますが、俺は食べ物に釣られて非道を許すような教育は受けていません。希美をいじめるのはやめてください!』
……うん、これでいこう!
いきなり会いに行くと、前みたいに返り討ちにあうかもしれない。
結局あの後、気付いた時にはライはいなくなっていた。言いたいことも言えないまま、希望は頂いた獲物を抱えてとぼとぼと逃げ帰ってきてしまったのだ。情けないし、悔しい。
それに、隊列の前に飛び出したから、偉い人にたくさん怒られた。とても反省している。俺は賢いのだ。何度も同じ過ちは繰り返さない。それが誇り高き血統書付きわんことして矜持だ。
希望はたくさん考えて対策を練っていた。
しかし、希望が会いに行く前に、何故かライの方から来てしまった。希望は急に呼び出されて、心の準備が出来ていなかったが、勇気を振り絞って、そーっと外に出た。
外に出た途端、希望は立ち尽くした。口は開いていたが、声も出ない。ただ、目を見開いて呆然としていた。
ライと希望の周りだけ誰もいなくなって、ぽっかりと空いた穴に、二匹と、〝それ〟だけがいる。
〝それ〟はドラゴンの頭部だった。ライよりも大きく、鱗の一枚一枚でさえ、希望の手のひらよりも大きい。幾重にも重なった鱗は日差しを浴びて虹色に輝いていた。瞳は真っ赤な宝玉だ。首の断面からはまだ血が滴り、地面を染めていく。
とても綺麗で、恐ろしくも美しく、命を奪われてもなお威厳のあるその姿に希望は、――引いた。
俺これ知ってる。博物館にあるやつだ。
頭部の骨と宝玉が片目に一つだけ飾られていたものを見たことがある。多分、同じ種のドラゴンだ。博物館の一番奥の部屋、数年に一度しか開かれない特別展示室の中央にあった。歴史的価値も、美術品としての価値も計り知れない。というより、値段なんて付けれないほど稀少な宝物だ。このドラゴンの宝玉は何かの儀式に使うもので、本当は両目揃ってなければいけないけど、今はもう片目しかないんだ、って書いてあった。
博物館に飾られていたのは希望が抱えられそうな大きさだった。
それに比べて目の前にあるのは、頭だけでこの大きさ、この迫力。全長はどれくらいだったんだろうか。
考えれば考えるほど、目眩がしてきた。
希望は震えが止まらず、みるみるうちに青ざめていく。ライはじいっと見つめていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「……首から下もあるが?」
「け、結構です……」
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