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第31話 猟犬様の帰還③

 廊下の静寂を脅かす淫らな音楽が止まって数分後、医務室を不在にしていた担当医師は、ぎょっとして鍵を落とした。   「誰?! 鍵を壊すなんて、いけませっ…」    室内の人の気配に気づいて、彼には珍しく声を荒らげて扉を開け放つ。  そこにいたのは、基地で知らぬ者はいないであろう、猟犬のライである。ライは着崩した衣服を整えていたが、突然の侵入者に――否、明らかに違法に侵入したのはライの方だが――別段驚いた様子もなく、一瞥するのみだった。    医師の声に驚いて飛び上がったのは希望の方だった。    希望はベッドでぐったりと横になったまま、少し開けたカーテンの隙間から、身支度を整えるライをぼんやりと見ていた。医師と希望の間にはカーテンとライがいるから、希望のことは見えていないだろう。  何より、いつも優しくて親切で、何より心優しく清楚な先生に、今の姿の自分を見られたくはない。ライみたいな男と一緒にいるところも見られたくない。  希望だけではなく、仔犬たちはこの医務室の担当医を『先生』と呼び慕っていた。    思わず飛び上がってしまったが、希望はまた小さくなって布団に潜り込んだ。    ――でも、ライさんが先生に酷いことしようとしたら止めなきゃ!  先生にまでこんなことしたら許さないぞ!    希望はこっそり顔だけ出して、カーテンの隙間から様子を伺った。  先生はライを見て驚いているようだった。    そりゃそうだ、ここは仔犬が来るところだし、ライさん服着直してるし、そもそもライさんを見たら何かとみんなびっくりしている。  まあライさんだからな、仕方ない。と希望は納得した。    先生! 早く逃げて! とハラハラと心配して見つめていると、何故か先生の綺麗なお顔が急に赤くなっていった。   「ライくん…?! そ、そんなっ急に来られてもっ……! こっここでまたあんなことされたら僕っ……!」    首筋まで真っ赤に染まり、先生は両手で頬を挟んでくにゃり、とよろけた。    んん? 先生?? 先生!?    希望は予想外の展開に少し身を乗り出した。    また? あんなこと?  あんなことって何? どんなこと?!  嘘だろ?! 俺の癒やしの先生に何したんだこの野郎!!    ライが邪魔でよく見えなくて、希望はカーテンを少し広げた。先生は気付いていないようだ。  先生のツヤツヤの長い毛の尻尾がくねくねゆらゆら。希望と同じくったりと垂れたお耳がぴくぴくふるふる。  頬を染め、瞳を潤ませて、眉を切なくて寄せて、ライをチラチラと見つめる眼差しは熱く艶っぽい。    先生?  いつも優しくて清楚な先生は?  俺の癒やしの先生はどこですか?   「き、君激しいから…ここじゃ声が響いちゃうっ…あっでも…い、嫌なわけじゃ……」    せ、せんせ――!?  嘘だよね!?  嘘だって言ってくれ――!! いやだぁ――!!    蕩けた表情でライを見つめていた先生は、ライが近づくと、あぁっ、と触れてもないのに嬌声じみた声を上げている。  必死に現実の受取拒否をしていた希望の中で、いつもの綺麗で優しく清楚な先生が砕け散っていく。あまりの衝撃にこの場で泣きそうだったが、ぐっと堪えて、隠れるのも忘れて項垂れた。    希望の夢を打ち砕いたライはと言えば、先生を冷たく見下ろしている。   「勝手に発情するな」 「はっはつじょう!? だ、だってきみがっ……」 「仕事しろよ」 「え?」    なんのこと? と先生が首を傾げて、ライの示す方を覗き込む。  希望がカーテンの隙間から顔を覗かせて絶句している姿に、声にならない悲鳴を上げた。真っ赤な顔を青褪めるという器用なこともしている。  それでも医師としての責務を思い出したのだろう。もともと責任感の強い医師なのである。  端正な顔で、キッと弱々しくライを睨む。   「~~っこっ! ここで淫らな行為は許しませんよ!!」 「どの口が言ってんだ。診ておけよ」 「だから君が……と、とにかく出ていってください!」   『癒やしの先生』が医師としての正気を取り戻して、恥ずかしさで震えている。    ――先生、ライさんのこと好きなのか……。   「意外と男の趣味悪い、気をつけてほしい」などと考えながら先生を見つめていると、ライの声が「おい」と降ってきた。    まだショックから立ち直れず、呆然としたまま視線を向ける。ライが少し屈んでいて、思っていたよりもずっと近くで目が合った。  ライは希望の顔を覗き込んでいる。希望が首を傾げると、頬に掠めるようなキスをしていった。   「――っ!」 「あとでな」    希望は叫びそうになったが、その前にライが出て行ってしまい、言葉にはならずに消えていく。    先に我に返ったのは先生だった。  まだ顔も赤く、なんなら首筋まで真っ赤だったが、心配そうに希望を覗き込む。   「大丈夫?! ああっ、こんなに噛まれて……! ひどい……!」    先生は慌てて棚から消毒液等を取り出して、希望のもとに戻って手当てをしてくれた。  いつものように優しい先生の眼差し、細く美しく柔らかい手つきに、希望は今更ライへの怒りが、ふつふつとこみ上げる。    ――あの野郎。    こんなに綺麗で優しくて清楚な先生までメロメロにしてあの態度はなんだ。俺の癒やしになんてことするんだあの外道!  ずるい!!  俺だって綺麗で優しくて、清楚なのにえっちなお兄さんとイチャイチャしたかった!! なんでこんな目に!!   『癒やしの先生』という夢をぶち壊されたことと、先生への態度が許せなくて、希望は心の中で暴れまわる。    ――なんだったんだあの、もう興味ないみたいな冷めきった目はっ! 抱いたんだろ!? もっと優しく、大事にするべきなのにっ……    そこまで考えて、はた、と思い当たる。    ――俺も、そうなる……のかな……?    なぜか分からないけれど、心にずっしりと重い石を放り込まれたかのようだった。耳も尻尾も垂れ下がり、希望が項垂れる。    哀れな姿に、「無体を強いられたに違いない!」と考えた心優しき医師はいつもよりいっそう優しかった。

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