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第32話 猟犬様と追いかけっこ(1)

 太陽が沈み、薄暗くなると、仔犬たちはの寮へと帰っていく。多くは血統書付きの貴族の子だ。大事なご子息を預かっている為、門限には厳しかった。外泊の際は、仔犬の安全について責任を担う上官のサインも当然必要となる。なにより、寮監がめちゃくちゃ怖いのだ。  その為、寮の付近の街は一気に静かになる。  茂みがザアザア、と風に揺れるもよく聞こえる。  その中で、ガザザ、と茂みから明らかに風のせいではない音がした。    ざば、と顔を覗かせたのは希望である。    ――いない。    金色の瞳が注意深くあたりを見回して、茂みからそっと抜け出て、走る。できるかぎり素早く、近くの物陰に隠れて、またこっそり周囲の様子を伺った。  ライの姿も、匂いも、気配もないとわかると、少しだけほっと胸を撫で下ろして、隠れる。    ライに見つかったら逃げられない。ならば、最初から見つからないようにすればいい。  希望は考えに考えて、シンプルかつ、最も難易度の高い方法を選んだ。  選んだ、というより、もうそれしかなかった。    不本意だが、以前ライに狩りに連れて行ってもらった時の知識が役に立っている。身の潜め方、静かな走り方、気配の殺し方、かくれんぼをいっぱいして教えてもらった。  本当に不本意だが、今はその技術を使うしかない。    ――……そういえば、あれから狩りとか、デートみたいなの、してくれないな。    初めての狩りで浮かれて、デートだって気づいて緊張して、怯えて、楽しくて、怖くて、「次はどうする?」なんて言われて嬉しかった。    次って、いつなのかな。  それとも、……デートは、もうしないのかなぁ。    ぼんやりと考えて、心が沈んでいくのと同じように俯いた。しかし、はっと気づいて、頭を振る。  周囲の警戒を怠ってしまった、ともう一度安全を確認した。    捕まったら終わりだ。  この間も、任務で留守にしていたライさんが早く帰ってきて、医務室で襲われるし、部屋に来いと脅されるし、仕方なく部屋に行ったら、あんな、あんな……!!    屈辱的でおぞましい出来事を思い出して、希望は小さく唸って頭を抱えた。医務室で尻尾を撫でながら「これの使い方、とか」と、謎めいたことを言っていたライが、何をしたか。思い出してしまった。    ――し、しっぽで、俺の、自慢の尻尾を! きれいに手入れしてもふもふにしているのに! お尻に、あんな…あんなことに使うなんて……!   「指よりは、いいだろ?」と耳元で囁いたライの低い声まで鮮明に蘇って、恥ずかしさと屈辱、怒りでだんっと地面を踏む。  自慢の尻尾を穢された夜、希望はお風呂で泣きながら自らの吐き出した白濁でべとべとになった尻尾を綺麗に洗ったのだ。  屈辱だった。  好きな人にしか触らせたくないのに、勝手に触った挙げ句、淫らな行為に利用するなんて!    もはや己の誇りを守るには、ライに会わないように逃げるしかなかった。  戦わずに逃げる、ということに抵抗がないわけではないが、致し方ない。女神様もお許しくださるだろう。相手はライさんだし。多分悪魔だし。    ――もうすぐ、もうすぐ寮につく!    今まで、寮の中までライが入ってきたことはなかった。だから、寮にさえ帰れば、今夜はぐっすり眠れるはずだ。    寮にいても、呼び出されて出ていかなければならないことも何度かあった。何とか拒もうとしても、友達の仔犬達から優しく暖かい眼差しでぐいぐい背中を押されて送り出される。    くっ! おのれライさん! いつの間に俺の友達を誑し込んだんだ腐れ外道!!    そう、純粋無垢な友に罪はない。ライさんが悪いに決まっている。希望はライへの怒りを更に燃え上がらせ、奥歯を噛みしめるのだ。  だがしかし、何故かあの厳しい寮監から「まあ、ライなら間違いないだろう」と送り出されるのは解せない。何が間違いないのか未だにわからない。間違いでしかない。    しかし、門限後の呼び出しは今までなかったし、寮監だって許さないだろう。  だから、大丈夫。中に入れば、逃げ切れる。    物陰に隠れた希望は、寮まで障害物がないことを確認して、呼吸を整えた。  寮の門はまだ開いている。ぎりぎりのところを駆け込もう、と希望はじっと目的地を睨む。    門限3分前で、門番の他に警備員も各所から姿を見せ始めていた。彼らが周りを見回していると、寮監が現れた。数名の警備員とともに確認を行っているのだろう。最後に自身の懐中時計で時間を確認すると、門番に指示を出した。  彼らが大きく重い門を閉じていく。    意を決して、希望は走り出した。   「はいざんねーん」 「えっ!? わ、あぁっ!?」    身体がふわりと宙に浮いて、視界が高くなる。  肩に担がれたのだと気づくのと、声の主に気づくのは同時だった。   「ラ、ライ、さん……? え? ど、どこから……!?」 「惜しかったなぁ」 「な、なんで……どこにいたの!?」 「さぁな」 「――っ!!」    希望の疑問には一つも答えず、ライは続けた。   「隠れるのうまくなったな。前は尾が丸見えだったのに」 「ま、丸見え!? しっぽが?! いつ?!」 「狩りの時だよ。成長したな」 「言えよ!! ていうかうまくなったって…ぜ、全部見て……」 「まあ次は頑張れよ。じゃ、行こうか」    ライが歩き出し、希望は慌てて、逃れようと藻掻いた。   「は、離して! 離せよ!」 「門限過ぎただろ? 泊めてやるよ」    門を見れば、こちらの騒ぎを見て、門番も寮監も、珍しくぽかん、と口を開けたまま動きが止まっている。  しかし、動き出して、門を閉じるのも時間の問題だろう。  希望の上半身はライの背中側になっていた。安息の地がどんどん遠ざかって行くのが見える。  希望は何度も強く、ライの背中を殴った。   「離して! 離せ! ま、まだ門が……が、外泊届けも出してないし、だから……!」 「出しておいたから大丈夫だよ?」 「なんでライさんが出せるの!?」 「さあ、なんでだろうなぁ」    不思議だよなぁ、とライにしては柔らかな声音で続ける。   「でも、これで何も心配ないだろ?」    はは、と軽く笑う声に、希望はぞく、と背筋が凍った。   「おっ……降ろせ! 離して!!」    形振り構わず、落とされても構わない、と希望が暴れ出す。背中を殴るだけでなく、両足も蹴り上げる。さすがのライも足を止めたので、希望は更に暴れようと全身全霊の力を込めた。   「危ないぞ」 「きゃいんっ!」    希望の尻尾をライがぎゅっと引っ張った。ビビッと尻尾が伸びて硬直し、腰がきゅっと上がる。   「やっ、やめ、ひっ、あっん! きゃぅぅん♡」    さらに尻尾の付け根をぐりぐりといじめられてしまえば、希望は力なく震えることしかできなくなった。   「やっ、やだやだぁ!」 「どうしたぁ? 我慢できないならここでする?」 「っ……」    ライの手がようやく止まって、希望もくったりと力なくライに身体を預ける。  周りを見れば、昼に比べて数は少ないとはいえ、いないわけではない。静かな中で騒いだ分、視線が自分にだけ集まっているような気さえする。   「……っこ、ここはやだ……おろして……」 「ああ、そう?」    残念、と零れた声は無視して、希望は大人しく地面に降りる。  降りる直前、ちらり、と寮の方向に目を向けると、ライが希望のうなじをゆっくりと撫でた。   「……逃げるなよ」    希望にだけ聞こえるような低く、底冷えするような囁きに、希望は顔を上げた。  ライに撫でられたうなじには、治ったばかりの傷跡がある。初めてライに組み敷かれた時に付けられた、深い噛み跡だ。最近ようやく治ってきたところだった。  ライは笑みを浮かべているが、楽しそうなわけでも、揶揄うような空気も感じられない。  その眼差しは深く、重く、「これ以上煩わせるな」と言っている気がした。    機嫌を損ねた絶対的な存在を前にして、希望は小さく頷くことしかできなかった。

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