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第36話 仔犬ちゃんは夢を見る③

 特別な誰かと。  そう考えた時に、思い浮かんだ姿を希望はよく知っていた。  でも認めたくない。そんなはずはない。    ――だって、ヤラれてから口説いてくれないしデートにも誘われない。おもちゃみたいに弄ばれて、花を散らされて、酷いことばっかりされている。  だから、きっと、ライさんだって、おれのことなんか――。     「何考えてんの?」 「へ?」    ハッとして顔を上げると、思っていたよりも近くにライの顔があった。  深い緑の瞳に自分の顔が映りこむ。覗き込まれるほど接近を許してしまい、思わず「ひんっ」と悲鳴が上がり、肩が震えた。   「な、なに?」    希望が後退ろうとも、ライの視線は希望を捕らえたままだ。  シャワーから戻ったライが部屋に入って隣に座るまで気づかなかった。ライの部屋のベッドに腰を掛けたまま、ぼんやりとしてしていたみたいだ。   「何考えてた?」 「……? ……な、なにも…なんでもない……」 「……」    言ってみたところで嘲笑われるだけだと、希望はそれ以上答えず、口を噤んだ。  けれど、希望の答えに少しも納得していない様子で、ライはじっと希望を見つめている。    丁寧に作り込まれた精悍な顔立ちは、表情がないと冷たさが際立つ。目の奥が笑っていないことはよくあるが、口元の笑みさえもないとなると何も読み取れない。決して心が読み取りやすい男ではないが、獲物を前にした舌舐めずりのような眼差しと歪んだ笑みを見れば、自分をどう嬲ろうかと楽しんでいることくらいはわかる。  けれど、今は希望の息遣いさえ見逃すまいと観察しているような眼差しだ。    ――……この人は、俺をどうしたいんだろう?    考えたところで、自分には決定権も選択肢も、そして抗う力もないことは、嫌というほど身体に覚え込まされている。希望はただ不安を募らせ、ライの次の言葉を待った。   「……まあ、いいけど」    それだけ呟くと、ライは僅かに顔を逸らした。それだけで肩が軽くなった気がして、希望はほっと息をつく。  希望は安心して俯いてしまったから、ライが目だけで希望を追い続けていたことには気づいていなかった。   「……手、出して」 「え?」 「いいものあげる」 「え!?」    希望は顔を上げて目を真ん丸くすると、ライの動きを目で追った。ライはベッドサイドに手を伸ばしている。  胸が高鳴り心が踊り出すのと合わせて、耐えきれないとでもいうように、希望の尻尾もパタパタと待ち遠しそうにはしゃぎ始めた。  背を向けていたライが向き直ると、希望の瞳が一段と煌めいて、ライは、はは、と笑った。けれど、今の希望には気にならない。   「ほら、お手」 「う、うんっ……!」    普段なら、馬鹿にするな、と怒鳴るところだが、希望は素直に両手を揃えて差し出した。  ころん、と手の平に冷たい感触が転がる。  それは液体の入った小瓶だった。   「あげる」 「……?」    希望は手の平からライへと視線を移した。ライは膝に肘を乗せ、頬杖をついていた。希望を覗き込むようにして、愉しげな笑みを浮かべている。  希望はもう一度、自分の手の平に視線を戻した。    小瓶はボトルも栓も硝子出来ていた。  細かい細工の施された小さなガラス瓶は可愛らしい。香水の入れ物のように見える。  中にはピンク色の液体が入っていた。少し傾けると瓶の中でとぷん、とゆっくり揺れて、ある程度粘度のあるものだとわかる。    見覚えがある。    けれど、答えを出したくなくて、希望は呆然と見つめたまま動けなかった。   「持ってて」    ライの声が耳元で響いて、ビクリと震える。   「今度俺が呼んだら、これ使って準備しておいて。痛いの嫌だろ?」    からかうように笑うライをじっと見上げたが、希望は何も答えられず、手の平の小瓶に視線を戻した。期待を打ち砕かれた衝撃で、すぐに立て直せなかった。   (……久しぶりの贈り物だと思ったのになぁ。前みたいに、知らない世界の一欠片をくれるのかと思ってたのに)    少しの間動けずにいたが、ゆっくりと心が動き出す。けれど、悲しみや怒りは沸いてこなかった。  ただ、自分に呆れて、ずっしりと落ち込んでいく。    ――なんでいつもいつも、期待しちゃうんだろう。何度も砕け散って、もう粉々なのに。まだ時々、キラキラと光って目が眩む。……優しくしてくれてた頃のときめきが残っているみたいに――   (……でも、流石に砕かれた直後はもう逆らう気が起きない……)    希望は小さくため息をついた。   「……わかりました……」 「…」    希望は項垂れたまま答えた。逆らってもどうしようもないということは承知で、いつも必死に抗うのに、今は顔を上げる気にもなれなかった。  ライの視線がうなじのあたりに感じられる。それでも希望は顔を上げなかった。    しばらくの間、ライは希望を見つめていた。  しかし、ゆっくり首を傾げると、顔を上げない希望をじっと見つめ、また反対側に首を傾げる。初めはそうやって不思議そうに眺めていただけだったが、希望が俯いたまま動かないでいると、不意に手を伸ばしてきた。   (……は? なに? なに??)    耳をくにくにと柔らかく撫で、頬を指先で擦る。いつものように弄ぶような手つきではなく、少し触れては離れ、少し触れては離れて希望の反応を窺っているようだった。   (え!? なに?! どうしよう、すごい鬱陶しい!)    希望は心が深く傷ついた時には、ひとりでいたい仔犬だった。深く冷たい心の海に沈んで、静かに落ち込んでいたいのだ。  なのに、ライが気になって傷心に集中できない。    希望が仕方なく顔を上げると、ライは珍しく不思議そうな顔をしていた。希望の反応に納得がいかないようだった。なんでそんな顔してんの? と、希望の方こそ不思議でならなかった。   (もしかして、俺が喜ぶと思ったとか? さすがにそんなわけないよね?)   「……なんですか……?」 「別に」 「……?」    ライはまた、希望に興味を失ったように視線をそらした。  希望はまた、は? と眉を寄せて首を傾げた。    俺の静かな傷心の時間を邪魔しておいて、何だこいつ!    希望の方がよっぽどライの態度に納得いかなくて、傷ついて沈んでいたはずの心も僅かに浮上する。ライの横顔を睨みつける程度の力だけ奮い立たせる。  しかし、ライの視線が突然希望に向けられ、バチッと音が聞こえそうなほどしっかりと目が合ってしまえば、それも一瞬で弾けて消えた。  ライは希望の反応に僅かに眉を寄せていたが、すぐにいつものように口元を歪め、からかう様な笑みを浮かべた。希望の方へぐっと身体を寄せたので、希望はまた震えてしまう。   「これ、今使ってみて」 「……は……?」    希望の手の平の小瓶を、ライの人差し指がトン、と軽く触れて示す。   「自分でやってみて。そんで自分で乗っかって動いて。上手にできたら今日は帰してやってもいいよ」    ライの声が響く。鼓膜から全身へ甘く痺れて、ぞくりと背筋が震えた。   「どうする? できる?」    希望の逃げ道なんて一つも用意していないくせに、あえて希望に選ばせる。そうやって希望はもう何度も、屈辱を強いられた。  今までの希望なら、こんなもの! 馬鹿にするな! と投げ捨てて叩き割っていただろう。けれど、何度も打ち砕かれてすっかり擦り減った反抗心は、淫らな贈り物を受け取ってしまった時点でもう残されていなかった。    希望は小瓶を見つめたまま、小さく頷く。  小瓶の中の液体が、とぷ、と妖しく揺れた。

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