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第38話 仔犬ちゃんは夢を見る⑤

 柔らかいベッドに沈んだまま、ぼんやりとライの背中を見つめる。  鍛えられた肉体は背中でさえ隙はなく、綺麗に筋肉の凹凸が表れていて、彫刻品みたいだ。うっかり美術館に飾られてしまうんじゃないか心配になる。  広い背中には任務による傷なんてほとんどない。だから、自分が必死にしがみついて、縋って、引っ掻いた傷が目立つ。よく見たら、ライの腕にも同じように自分がつけたであろう爪痕が、そして首筋には紅い跡がちらほら残っていた。  最上位の猟犬に、痕を付けることを許されたという、証が。    いつも気を失うまで犯されていたから、事後にライの背中を見る機会なんてなかった。  今まででずっとライを、ライに与えられる快楽を、必死に拒んできた。けれど、素直に気持ちいい、と啼いて縋って求めてみれば、ライは応えてくれた。  今は甘い余韻と気怠さだけが希望を満たしている。   「どうする?」    ふと顔を上げると、ライが希望を見つめて首を傾げていた。   「……? ……どうって……?」    ぼんやりとした表情のまま、希望も首を傾げる。ライの大きな手が柔らかく髪を撫で、額に触れるのを受け入れて、心地良さそうに目を細めた。   「今日は帰ってもいいよ。上手にできたし」    希望は言われて初めて、ああ、そういえばそういう約束だったと思い出した。  答えない希望の頬を、ライの手がゆっくり撫でる。希望はその掌の大きさと熱さから離れたくなくて、思わず両手を添えて擦り寄り、じっとライを見つめる。   「……なんて顔してんだよ」    は、と呆れたように、ライは軽く笑った。   「泊まってく?」 「……う、うん……」    いいよ、と答えたライはまた笑っている。低く響く声がいつもより柔らかいのは気の所為だろうか。    ――……そうだ。    部屋に入れるのも、泊まるのを許されるのも、きっと俺だけ。  嬉しくなかったけど、あの小瓶だって、他の人にはあげてないかもしれない。  ……俺だけってことは、特別ってこと?  もしそうだとしたら    ――……俺はライさんの“特別”なのかもしれない。    微かな喜びと期待が、希望の背中を押した。   「……ライさんは硝子の森知ってる?」 「? 知ってる」    事後の余韻に、蜂蜜のように蕩けていた希望の瞳がきらりと輝いた。   「行ったことある?」 「……ない」    ライが知っているとは思わなかったから、知っているなら話が早い。何よりまだ誰とも行ったことがない、というのが嬉しくて、希望の瞳が一段と煌めいた。    暗い森の奥深く、静かな泉の神秘的な光景。  硝子のような鉱物で作られているような、草木、花。  木漏れ日でキラキラ煌めいて、鉱物の内部に入った光が反射を繰り返し、虹色の光を降り注ぐ。   「まるで、妖精の祝福みたいに綺麗なんだってみんなが言ってて……俺行ったことがないから、気になってて……!」 「……」    希望が硝子の森の魅力を一生懸命伝えようとするが、ライの反応は希望が期待していたようなものではなかった。  相槌もなければ、頷くことも、それどころか否定や反論もない。ただじっと希望を見つめている。それがじわじわと重くのしかかってくる。  あまりに反応が薄いので、希望は挫けそうだったが、それでも意を決して、続けた。   「希美とユキさんがデートでいくって聞いて、楽しそうで、…おっ、……俺も行きたいなーって!」    ライの眼差しの重さと鋭さに喉も潰されてしまいそうだったが、希望は声を絞り出して訴えた。   (言っちゃった! でも、たまには普通のデートしたいし!!)   「……?」    思わずぎゅっと目を瞑って俯いてしまったが、答えが無くて、恐る恐る顔を上げる。ライは相変わらず希望をじっと見つめていた。  希望が首を傾げていると、不意に視線を逸らして息をつく。   「……行けば?」 「え?」    僅かに苛立ちを滲ませた声に体が強張る。  希望には何がライの逆鱗に触れたのかわからなかった。  誤解があったのかもしれない、と慌てて口を開く。   「あっ…あの、ライさんも一緒に」 「なんで俺がそんなもんに付き合わねきゃなんねぇんだよ。勝手にしろ」 「……っ……」    明確な拒絶の言葉と、そして鋭い嫌悪と怒りさえ滲むような冷たい眼差しに、希望の淡い夢はぱちんと弾けて消えた。    ――……またやっちゃった……。    素直に求めて縋れば、甘やかしてくれるかも、叶えてくれるのかも、なんて。  淡い期待はシャボン玉のように弾けて消えていく。    何がだめだったんだろう? さっきまで優しかったはずなのに、どうして、と、期待の破片がぐるぐる巡る。   (……前はデートだって、してくれたじゃん。なのに、どうして?)    巡りに巡った破片は、いつかのライの言葉を掘り起こしてきた。    『狩り終わった獲物に興味ねぇな』    ……そうだ。ライさん、そう言ってた。  ああ、そっか、と何故か納得してしまう。    ――……俺、もう狩られちゃったから、興味ないんだ。    最初はきっと少しくらい興味があっただろう。  贈り物もたくさんくれて、デートだってしてくれた。  あれだけしてくれたんだ。きっと特別だったはずだ。  あの頃は。    でも、今は?  弄ばれて、暴かれて、誇りも尊厳も何もかも塗り潰されたあの日からは?    『君激しいから…っ』    ……先生にも、そうだった?  最初は優しかった? まるで特別な存在みたいに、丁寧に触れてくれていた?  それが今は……?    『勝手に発情するな』    冷たい目。触れもしない指先。    ……俺も?  デートも贈り物も何もなくなって  いつもヤるだけで、終わり。  さっき優しかったのも、ヤッてる時だからってこと?  だとしたら、もしかして、もう…とっくに心は離れて……。    辿り着いた答えを、希望は頭を振って振り払った。    ――今だって、毎日のように求められるし、一晩中離してくれない。夜だって泣いてたらぎゅっとしてくれてキスしてくれる。好きでもない相手にそこまでするか?  ……するのかな、ライさんは。    抱きしめられて眠る優しい夢の後、目覚めた時にはぬくもりも姿も消えている朝を思い出して、希望は肩を落とした。じわりと滲む視界を振り払って、ぎこちない笑顔を作り上げる。   「へ、変なこと言ってごめんなさい……。やっぱり帰る…っ…?」   「帰るね」と言い終わるか言い終わらないかというところで、希望は顔を上げた。大きな影に覆われて、ゆっくりと視界が傾く。背中にはベッドの柔らかい弾力を感じた。ライが覆い被さって、首筋に顔を埋めている。  押し倒されたことに気付いたのは、首筋に牙が食い込む痛みを感じた後だった。   「っ……!」 「何考えてる?」    顔を上げたライが、じっと希望を見つめる。   「……なに、って……?」 「余計なこと考えるなよ」    悲しみに曇る金色の瞳の奥を覗き込む。暗くて深い眼差しからは苛立ち以外の何も読み取れなくて、希望は首を傾げた。   (余計なこと? …ああ、デート行きたいって言ったことかな)    ……余計なことかなぁ。    俺はライさんとまたデートしたい。  前みたいに狩りにでかけて、いっぱいお話して、一緒に過ごしたい。えっちも気持ちいいけど、触れて、撫でて、ぎゅっとしてくれるだけでいいから。    ……でも、ライさんには楽しくないのかな。あの時も希美を見てた。きっと俺とのかくれんぼ、ライさんにはつまらなかったんだよね。  だからもう……。   「……うん……」    希望は諦めたように力無く微笑むと、ライの背に腕を回した。  真っ黒な尻尾がゆっくり揺れ始める。  口づけを受け入れて、身を委ねた。    ――わかってるんだ、本当は。    自分が『お気に入り』じゃなくて、ただの『玩具』だってことは。    それでも、熱く、激しく、求められると、どうしようもなく胸が高鳴る。  なんでだろう? 玩具みたいに、弄ばれているだけなのに。    ――わかってる、のに。    ライさんの尻尾が揺れるのは、俺が特別だからじゃない。  俺がライさんを楽しませられるのはもう、これだけしかないってことなんだ。

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