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第39話 仔犬ちゃんは夢を見る⑥
その美しい猟犬は、ライ同様、『女神の最高傑作』と呼ばれている。
日差しを受けて煌めく、白銀の髪と長い睫毛、そして艷やかな毛並みの尻尾と凛々しい立ち耳。その輝きはダイヤモンドダストの如く神秘的で、見た者の心を容易く奪い取る。
深い青の瞳は微かに緑が散りばめられ、最上級の宝石が埋め込まれているのではないかと錯覚してしまう。
真っ白な肌は雪のように純白で汚れを知らず、女神が御身を写したもうたと称される美貌に、男とも女とも違う、凛々しさと妖艶さを兼ね備えたしなやかな肢体。
――ああ! 今日も間違いなく、世界で一番美しいのはあなたです!!
童話の魔法の鏡のように、心の中で叫んだ希望は満面の笑みを浮かべて彼に駆け寄った。金色の尻尾は千切れ飛んでしまいそうなほど力強く、ぶんぶんと振っている。
「ユキさぁ――ん♡」
彼がいるだけでいつもの憩いの広場がまるで幻想の園へと変わってしまう。
佇む雪の精霊、もとい猟犬のユキに声をかけることを許される幸福を噛み締め、名前を呼ぶ。
「…! 希望くん、久しぶり♡」
丁寧に作り上げられた美貌は、微笑みという僅かな表情の変化で最大限の効果を発揮する。
偶然この場に居合わせて、それを拝むことができた幸福な者たちは、ある者はくらりとよろめき、ある者は見惚れて壁や建物に衝突し、持っていた荷物をぶちまけるなどの大惨事を招いていたが、希望は「お疲れさまです!」と元気にその横を通り過ぎていった。
「ユキさん♡」
「希望くん、ごめんね。急に呼び出しちゃって」
「大丈夫です! ユキさんが呼んでくれるなら、世界の果てでも行きます♡」
「フフ、ありがとう♡」
ユキは希望の頭を優しく撫でる。いいこいいこ、と柔らかく微笑み、顎の下も擽る。
希望はふにゃにゃぁ、と表情を緩ませた。垂れた耳はふるふると震え、尻尾は元気よく左右に振りまくる。
希望は誇り高き血統書付きのワンコだが、今はゴロにゃんと甘えてもいいのだ。何故なら、相手がユキさんだからだ。
「いろいろ聞きたい事があって…ここでいいかな」
「はぁい♡」
そのまま、ユキがすぐ側のベンチに腰かける。
希望が隣に座るとユキがそっと手を伸ばしていた。白く細く長い指先に見惚れながら、頬に触れるのを目で追う。少しひんやりとしているが、なめらかな肌触りで心地良い。
「……ユキさん?」
「大丈夫? 希美くんに聞いたけど、最近疲れてるみたいだって言うから心配で……」
ユキは頬に添えた手を離すと、憂いを秘めた表情を見せ、目を伏せた。
なんて優しくて美しいんだろう。どこかの悪魔に見せてやりたい。
(……いや、嘘。見せたくない! 会わせちゃだめだ!)
美しくて優しい医務室の先生にまで手を出した男だ。同じく美しくて優しいユキさんにも手を出すかもしれない。そんなことは許せない。ユキさんは俺が守るのだ!
希望は固く決意した。
希望はユキが大好きだった。
希美の恋人、ということもあるが、こんなにも綺麗で優しい猟犬を希望は他に知らない。いつもいい香りがするし、毛並みは白銀の煌めきを集めてできているみたいに幻想的な美しさを放ち、女神か精霊の如き美貌はどんな時も崩れることはない。
繊細な美しい手でたくさん撫でてくれるのも好きだ。白くて細い指先は優しく、やわらかく撫でてくれる。
希望はユキに甘やかされるのが大好きだった。
「それで、最近あのド腐れ野郎が」
「え? ユキさん? ごめん、なんて? 風が急に強くなって」
「ンンッ! ……最近あの猟犬ライに絡まれてるって聞いて」
「あ、ああ! え、えっと…っ……だ、大丈夫です! 雑用係頑張ってます!」
ユキさんは綺麗で優しい。外見に相応しい繊細な心を持っているに違いない。悪魔みたいなライさんとは違う。
ユキさんに、俺がライさんに何されてるか言ったら気絶してしまうかもしれない。
『雑用係頑張ってます! まあ性欲処理もやらされるとは思いませんでしたけどね! てへ!』などとは口が裂けても言えない。
「そう、偉いね。でも、顔色良くないよ? 寝不足?」
「な、慣れない仕事多くて……でも、大丈夫です! 頑丈なんで!」
朝まで肉体労働強いられているから、などとは決して悟られたくない。
希望は元気であることをアピールするように、笑顔を見せた。
「そっか。頑張ってるんだね、希望くん」
「はい!」
「よかったらここで休んで?」
ユキは優しく微笑み、自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「え! いいんですかぁ♡」
「どうぞ♡」
「はぁい♡」
希望は躊躇なくユキの膝を枕にして寝転んだ。
すらりと長い脚は無駄な肉などないから、柔らかいわけではない。けれど、微笑んだユキは一段と美しく、細くて白くて綺麗な指先が擽るようにたくさん撫でてくれる特等席だ
ホッとする。
ライと関わるようになってから、なかなか会えなかった。少しひんやりとした優しい指先が、懐かしく感じる。
――そうだ、わかった。
何でライさんに撫でられてあんなに気持ち良くなってしまうのか。安心してしまうのか。
(……ユキさんの撫で方と似てるんだ)
ゆっくりと指先で掠めるように、次は擽るように、最後は掌全体で包むように撫でる。
指も体温も、全然違うのになんでだろう?
――……ライさんはもう、そんな風に撫でてくれないけど。
デートに誘っても『行けば?』『勝手にしろ』と言い捨てたライの冷たい眼差しを思い出して、じわりと視界が滲む。鼻の奥もツンと痛む。
希望はぎゅっと目を瞑って、ユキの優しい指先に意識を向けた。
「あの外ど…ライに、ひどいことされてない? 随分強引に連れ去られてるって聞くけど」
「うぐっ」
(そ、そんな! 俺の屈辱的なあれやこれがユキさんの耳にまで入ってるなんて!?)
恥ずかしさに震え叫びそうになるのを希望はぐっと抑え込んだ。
「だ、だいじょうぶ、です……」
「そう? なんか……ドラゴンの頭とか贈って……フフッ……んんっ…希望くんをすごい困らせたとか……ンフッ……!」
「?」
途中でユキの声が震えた気がして、希望は首を傾げた。横を向いていたから、ユキの表情はわからない。今ちらりと見ても、ユキは美しく微笑んでいるだけだった。
不思議そうに瞬きを繰り返した後、すぐに希望は心当たりに気付いて、ハッとした。
――もしかして、本部の会議室に連れ込まれたのとか、寮の目の前で攫われたとか、医務室でのこととか、全部知ってる?!
行為の最中を誰かに目撃されたことはおそらくないが、その前後は目撃者が多いはずだ。
ユキも最強の猟犬の一匹。自然と情報が集まるのかもしれない。
……ってことはまさか!?
声が震えるほど、ユキさんを心配させているのでは!?
心優しいユキを不安にさせるなんて、あってはならない、と希望は慌てて起き上がった。
「ド、ドラゴンはびっくりしたけど、頭じゃなくて鱗を貰って、その後雷獣の爪も貰ったんです! すごい綺麗で、他にも色々くれるし、ご飯奢ってくれるし!」
「……へぇ、そうなんだー♡」
キョトン、目を丸くした後、ユキはとびっきり楽しそうに笑った。微笑むだけではなく、珍しくにこにこと満面の笑みを見せるユキに、希望はほっと胸を撫で下ろす。
決して嘘ではないが、騙しているような気がして少し心が痛む。しかし、ユキへの罪悪感以上に、ぎゅっと胸が締め付けられて苦しかった。
「……いろいろ貰っても、……俺は全然、返せてないんですけど……」
――だから今は、ヤる時しか会ってくれないし、終わったらどこにもいない。
僅かに俯いて小さく呟く希望の頬を、ユキは優しく撫でた。
「そんなこと気にしなくていいんだよ? あのドスケ…ライが勝手にやってるんだから」
「う、うん……でも……」
「希望くんは可愛いんだから、好きなだけ貢がせちゃいなさい。あげたがりなんだよアイツ」
「……?」
――“アイツ”……?
「……ユキさん、ライさんと知り合いだったっけ?」
希望は首を傾げて、素直に尋ねる。
ユキはピタリと動きを止めた。希望の頭を撫でていた手も、瞬きも、全部止まって、まるで美しい氷像のようだ。
数秒経って、希望がもう一度声をかける前に、にっこりと微笑んだ。
「……猟犬ってみんなそんなもんだよ♡」
「……? そ、そうなのかなぁ?」
「そうだよ。好きな子には何でもあげたいの」
「す、好きな子?!」
「そうだよ♡」
希望は目を真ん丸くした。
「僕だって希美くんに何でもあげたいし、何でもしてあげたい。いつも側に置いて離したくないって思うんもん」
「……好き、だから……?」
「そうだよ♡」
ユキの言葉を噛み締める。
――好きな子? ユキさんにとっての希美みたいに?
「……そ、そうかなー? えへへ♡」
思わず顔がほころぶ。
希美にとってもそうだが、ユキにとって希美は唯一無二の大事な恋人だ。どれだけユキが希美を大事にしているか、希望はよく知っている。
それと同じ、と考えて、ふにゃりと頬が緩む。
――自信ないけど、ユキさんがそういうなら、そうなのかな。
『猟犬』のことなら、ユキさんの方がずっと詳しいはずだ。ライの言葉と態度に打ちのめされてしまったけど、確かにライは、仕事から戻ると片時も希望を離さない。
他には目もくれない。
(……でも、そうだとしたら、夜のぎゅっとしてくれるライさんは、もしかして、夢じゃないのかも。そうだったら、どうしよう。……嬉しい)
頬を染めて、はにかむ希望を、ユキは目を細めて見つめる。
「……僕から見ても、希望ちゃんは特別に見えるよ。最初からね」
最初から? と希望は首を傾げる。
ライと初めて会ったのは確か、希美を助けようとした時だ。ライからの突然の贈り物があまりにも衝撃的過ぎて忘れていたが、そういえばあの場にはユキもいたような気がする。
あの時からずっと? ライさんはずっと俺のことを?
(……あれ? じゃあ、俺は?)
心臓が大きく激しく胸を打つ。
どうしてライを拒めないのか。
どうして屈辱的なはずの行為をすべて許してしまうのか。
『ライさんにとって遊びでも、俺にとっては』
……俺は、ライさんが、
「希望」
心の奥から溢れそうだった答えは、低く響く声と真っ黒い影に塗り潰された。
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