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第40話 仔犬ちゃんは夢を見る⑦

 ――なんで、ライさんがここに……?    背後の気配に、名を呼ばれるまで気付かなかった。  のどかな昼下がりの明るい日差しの下、僅かに遮ってできただけの影が大きく、どうしようもなく重い。影が質量を得たのだろうか。それとも、視線だけで押し潰そうとしているのだろうか。  振り返ることも、顔を上げることもできなかった。   「……何をしている?」    低く響く声は、間違いなくライのものだ。いつもなら悪魔のように甘く希望を翻弄する声が、今は影よりも暗く重く、静かに囁く。その声だけでびりびりと空気は軋み、心臓を締め上げる。   (……怒ってる……? な、なんで!?)    希望はただ、久々に会った親しい友人と楽しく話していただけだった。何も責められるようなことはしていない。答えに困るような問いではない。それなのに、何故か必死に言い訳を考えている自分がいる。    ライは希望の答えを待っているのかのように、じっと見下ろしたまま動かない。  けれど、すぐに痺れを切らしたのか、希望へ手を伸ばす。近付く気配に、希望は顔を上げられずにいた。  諦めに近い気持ちでぎゅっと目を閉じる、が……。   「何か用?」    重く息苦しい空気を、冷たく鋭い声が僅かに引き裂いた。  希望はハッとして、ようやく顔を上げた。ライも動きを止めて、視線だけを声の主へ向ける。   「希望ちゃんは今、僕と喋ってるんだけど?」    ユキは、口元に挑発的な笑みを浮かべながら、眼差しは氷の刃のように鋭く冷たく、ライを射抜いていた。   (……えぇっ!? ユキさん!?)    希望の知るユキは、いつも優しく美しい微笑みに、凛と透き通るような綺麗な声で、甘く柔らかな口調のユキだ。  それが今、すらりとした細身で、希望を守るように前に立ち、ライを見上げている。    ライの眼差しが希望からユキヘと移ると、深緑の瞳の奥で暗い炎が揺らめいた。   「……ユキ」    それまで感情が窺えなかったライの表情が僅かに歪む。牙を剥き、喉の奥から低い唸り声も響いて、まるで荒れ狂う雷雲のようだ。  ユキの後ろにいる希望ですら尻尾を巻いて震えるしかないのに、その怒気をまともに浴びているはずのユキは、ライの神経を逆撫でするように、白銀の尻尾をゆらりと揺らし、なおも笑みを浮かべている。   「猟犬のくせに、『待て』の一つもできないの?」    ユキのいつもは涼し気な青い瞳もまた、鋭い光を宿している。挑発的な笑みを浮かべながらも、牙を見せつけて威嚇の姿勢を隠さない。ライが纏う重く軋むような気配とは違う、凍てつく冷気が肌を焼く。   「……誰の許可得て〝それ〟に近付いてんだよ。消えろ」    明らかに苛立ちと嫌悪を織り交ぜた声に希望はビクリと肩を震わせた。 「〝それ〟って何? もしかして俺?」と、理不尽な物言いに耳も尻尾も小さくなって震える。   「可愛い恋人の可愛い兄弟と仲良くするのに誰の許可がいるって? まさかお前の? 調子に乗るな」 「あ?」    二つの異なる暴力的な殺意がぶつかり合って火花が散る。   (ライさんは当然怖いけどユキさんも怖いよぉ! 優しくて綺麗でちょっとえっちな、いつものユキさんはどこ?!)    先日の医務室の先生といい、ユキといい、大好きな『優しくて綺麗なお兄さん』達のイメージがたて続けに打ち砕かれて、希望は泣きそうだった。  ユキさんを守らなきゃ! などと、一瞬でも思い上がったことを考えた自分が恥ずかしい。  とはいえ、ユキを置いて逃げるなんて考えられなかった。希望は誇り高き血統書付きのわんこなのだ。決して軍でトップクラスの猟犬二匹の荒ぶる殺意に、腰が抜けたわけではない。  そういうわけではないけれど、誰か助けてぇ! と仔犬のようにくぅーんくぅーんと鼻を鳴らして泣きながら、周囲を見回した。  広場でぬくぬくと憩いの時間を過ごしていた仔犬や猟犬たちはいつの間にか避難していた。  軍で知らぬ者はいない二匹の猟犬と逃げ遅れた憐れな仔犬を離れたところから見守っている。   「ユキさん!!」    声に気付いて視線を向ける。  遠巻きに見守る観衆を掻き分け、駆け寄ってくる希美の姿が見えた。   「の、希美ぃ!」 「あれ!? 希望まで!?」    希望はよろけながら、慌てて希美に駆け寄った。  希美は希望を支えると、平穏な広場を不穏で凶暴な戦場へと塗り替えたであろう二匹を見つめる。  二匹は確かに睨み合っていたが、希美にはほんの一瞬、ライの視線が希望に向けられたような気がした。  けれど、希美が希望を支えて、再び二匹を視界に捉えた時にはライの視線はユキへと戻っていた。  希美は首を傾げたが、微かな違和感はすぐに吹き飛ばされる。   「あのクソガキだけじゃ不満か? わざわざ他人の物に手ぇ出すなよ。そんなに飢えてんなら適当なの見繕ってくれてやろうか?」 「不満なんてあるわけ無いし、お前の使い捨てなんかいらないんだけど? っていうか『自分の物』なんてよく言えたな。上官って立場利用してるだけの男が出しゃばり過ぎじゃない?」 「それお前だろうが。士官候補に指導係が何の指導してんだよ腐れ外道」 「はぁー? 僕は希美くんに対しては順序守ってるから! お前と一緒にするなドスケベ!」 「あぁ?」 「止めてください! どっちもどっちですって!!」    希美の叫びも虚しく、二匹を取り巻く空気が一段と重く張り詰める。  そんな状況にも関わらず、希望は気付いてしまった。    お互いを知り尽くしているかのような罵詈雑言。  情け容赦ない剥き出しの憎悪。    睨み合う二匹は、まるで、まるで。   「痴情の縺れを感じる……!」 「せ、正解! 鋭い!」 「え?」 「あっ! いやっ、その……」    何でもない、と小さく呟いて、希美が目を逸らす。  希望は首を傾げるが、再び二匹を見つめた。   『女神の最高傑作』と称される二匹の猟犬が並び立つ姿はそれだけで一つの作品のようだった。互いが互いにとって、相応しい容貌と風格を兼ね備えている。  少なくとも、ライの隣にいるのがユキならば、きっと『お気に入り』だとか、ましてや『玩具』などと揶揄されなかっただろう。    会話の内容は耳を塞ぎたくなるようなものだし、何より二人が今にも殺し合いを始めそうで震えは止まらない。  けれど、恐怖よりもさらに強い感情がこみ上げてくる。    ――ライさん、ユキさんに気付いてから一度も俺を見てくれない……。    深くて暗い眼差しが、自分以外を捉えている。先程までは怖くて目を背けてしまったし、逃げたのは自分だ。  けれど、逃げる自分を追ってくれないことがどうしようもなく胸を締め付ける。    気付けば、希望はユキの前に飛び出していた。         「……」 「…………はっ」          水を打ったような静けさに、希望はハッと我に返った。    希望はライの首に腕を回してしがみつき、首筋に顔を埋めていた。  自分を見てくれないライへの、こみ上げる衝動を抑えきれず、思わず抱きついてしまったみたいだ。  仔犬にしては体格の良い希望が渾身の力を込めて飛びついても、ライはびくともしなかった。  でも、そんなことはどうでもいい。    ――うっ……うわあああああ!?    1秒でも離れたくて逃げ出したいのに、恥ずかしさと恐怖がグチャグチャに混ざり合って動けない。  ドッドッドッドッ、と心臓が狂ったエンジンのような音を立てて暴れ回る。鼓動に合わせて血液が全身を駆け巡り、体温が急上昇して警告音が鳴り止まない。    ――だっ誰かぁっ!! 誰か何か言って! 助けてぇ! ユキさぁん! 希美ぃ!!    ライにしがみついたままでは、ライはもちろんユキの顔も希美の顔も見えなくて、希望は心の中で必死に叫んだ。   「……ひぃっ!!?」    不安が頂点に達するその瞬間、背中にライの手が触れた。希望は悲鳴を上げて、身体を大きく震わせる。   (なに?! 何するの?! ごめん! ごめんなさい!!)    くぅんくぅん、と鳴きながら、ぶるぶると震える。ますますしがみつく力が強まってしまって、離れられない。  けれど、自分の背を支えるように添えられた手の大きさ、掌から伝わる体温がじんわりと馴染む。熱が巡って、解れていく。  はぁっ、と息をついて初めて、希望は自分が息をするのも忘れていたことに気付いた。  ライは引き剥がすことはしなかった。背中を支えながら、反対の手で希望の背を宥めるようにぽんぽんと軽く叩く。希望は徐々に力が抜けて、ライから腕を離した。   「ラ…ッライさん!ごめっ…っうわ!」    ハッとして顔を上げたが、ライに肩をぐいっと抱き寄せられてよろめく。ライに支えられたが、そのまま広場の出口へと向かってしまう。   「え?あっ…ユキさん! 希美! ごめん、またこんどっ……!」    慌てて希美とユキへ振り向く。  ユキが「はぁーい♡」とやたら楽しそうな笑顔だったのと、蛇に睨まれた蛙のように固まった希美が見えたが、ライは問答無用で突き進んでいくから、すぐに視界から消えていく。    肩を抱き寄せる手は痛いくらいに強い。  ライが纏う怒気は相変わらず空気が軋むほどに重くて押し潰されそうだ。    それでも、希望の胸のざわめきは、いつの間にか収まっていた。  言い様のない焦燥感が去った代わりに、甘いときめきに満たされている。  希望は胸に手を当てて、首を傾げた。

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