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第43話 仔犬ちゃんの夢の終わり③
希望がそのことに気付いたのは、翌日のことだった。
驚くほど平穏な時間を揺蕩うように、けれど靄々と薄暗い雲を心に漂わせて過ごしていた時だった。
――てっきり「だからどうした」「わかってるなら来い」って、またどこかに連れて行かれて、無理矢理ヤラれちゃうんだと思ってたのに。
『俺じゃなくてもでもいいくせに』
『そうだな』
――……ああ、そっか。やっぱり、そうなんだ。
自分の言葉に対するライの答えを反芻して、希望は一人静かに俯いた。
――でも、……ライさんがユキさんに手を出そうとしてたらどうしよう。
本当の目的を知って、ショックのあまり考えが至らなかった。希望は自分を責め、思わず駆け出していた。
――やっぱり、俺で我慢して貰えばよかったんだ……!
本部の近くに来て、希望はその光景を目にした。
ライの隣には、赤茶色の毛が鮮やかで、その鮮やかさに負けず劣らない麗しい顔立ちをした猟犬がいた。
(……は?)
向き合って会話をしているが、希望からはライの顔が見えない。ただ、赤毛の猟犬は笑っている。美しく吊り上がる瞳を、うっとりと潤ませて、ライを見つめていた。
希望が動けずにいると、不意にその猟犬の眼差しが希望へと向けられた。微笑みを浮かべていた表情が、ほんの一瞬、鋭い眼差しで希望を睨む。あまりの鋭さに希望はどきりとした。
(……え? なに?)
希望がわけも分からず呆然と見つめるが、赤毛の猟犬は、勝ち誇ったような笑みを浮かべたように見えた。次の瞬間、その猟犬は自身より頭一つ分背の高いライにつま先立ちをして唇を近づけた。
希望からは見えないが、数秒の仕草で、何が起きたのかわかってしまった。
希望は目を見開き、一瞬息をするのも忘れていた。
二匹が希望の方へ歩き出したことに気づき、希望はハッと我に返って物陰に逃げ込んだ。
二匹が通り過ぎてから、そっと顔を覗かせる。
背しか見えないが、赤毛の猟犬はライに腕を絡め、緩やかなウェーブがかかった尻尾は小さなお尻の上でフリフリと揺れている。
遠ざかっていく二匹を見つめて、希望はのろのろと物陰から出てきた。
ライの表情こそ見えなかったが、赤毛の猟犬の熱い視線や甘えた指先、身体を寄せる仕草で想像できてしまう。それをライがすべて許しているという事実だけが突きつけられている。
――……本当に俺じゃなくてもよかったんだ。
「……何だったんだろう、俺って」
ポツリと零れ落ちたのは、言葉だけではなかった。
「……あれ?」
頬を伝って、ポタッと地面を黒く染める一滴に気付いて、希望は目元を触れた。
ぽろ、ぽろ、と目の縁いっぱいに溜まった涙が、こぼれ落ちていく。
誰かに気付かれる前に、慌てて袖で拭う。ゴシゴシと乱暴に拭って、目元は赤く染まっていた。
――……もしかして俺、まだ期待してたのかな? ……自分で逃げちゃったくせに? 諦めが悪いなぁ。
自分に呆れて、はぁ、と小さくため息が溢れる。
顔を上げると、二人の姿が見えてしまう。油断するとじわりと視界が滲むので、希望は顔を背けて、歩き出した。少しでも遠ざかるように。
これ以上、自分ではない誰かが隣にいる姿を見ないように。
ゆっくりと歩いていた希望だが、やがて耐えきれず、力の限り走り出した。
一匹の仔犬が走り去る足音は、雑踏に紛れるはずだった。
けれど、彼の黒く大きな耳は、確実にその音を捉えていた。
ライは立ち止まり、振り返る。大きな耳が僅かにピクリと揺れたが、それに気付いたものはいないだろう。
隣にいた赤毛の猟犬でさえ気付かずに首を傾げていた。
「ライ? どうかした?」
「……別に」
***
大きく黒い悪魔が追いかけてくることはない。
突然目の前に現れるなんてことも起こらない。
安心して眠れる。
望んでいたことなのに、気付いたら黒い影を探している。
だけど、気配を感じたら、必死で逃げ続けた。
隠れて、彼が去っていく姿をじっと見つめる。安堵しながら、酷く落胆している自分をどうしようもなく馬鹿だと思う。
けれど、もし、あの暗い眼差しが自分に向けられた時、一片の愛情も興味も残されていなかったら。
……いや、それどころか、視線さえも向けて貰えなかったら、と考えたら怖かった。
それなのに、ふとした時に、待っている自分に気付く。
ベッドの上、一人で頭まで潜って、静かで穏やかな夜なのに。
嵐のように、暗闇のような猟犬が攫ってくれるのを。
決して、振り向いてくれないのに。
夢の中にすら現れてくれないのに。
待っている。
理不尽で、暴力的な魅力の、圧倒的な存在を。
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