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第44話 猟犬様の”元”お気に入り
ライのお気に入り――〝だった〟、仔犬。
希望がそう噂されるようになって、一ヶ月が経っていた。
何が変わったわけでもない。ただ、ライと出会う前の平穏な日常が戻ってきただけのように見える。
そう、変わったことといえば。
「仔犬ちゃーん、ひとり?」
「暇ならさぁ、お兄さんたちの相手してくんない?」
俯く希望に、二匹の猟犬が声を掛けた。
背は希望と変わらないが、希望はベンチに座って俯いていたので、通り掛かる仔犬達にとっては、『仲間のか弱い仔犬が粗暴な猟犬に絡まれている』と威圧的に映ったことだろう。
希望は顔を上げなかったが、猟犬二匹には関係ないようだった。
若い猟犬であった。ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべている様子は軽薄そうにも見える。けれど、一匹はベンチの背もたれの後ろから、もう一匹は隣に座り、獲物を逃がさぬように目を光らせる姿は、れっきとした猟犬であることを示している。
こうして希望に声をかけてくる猟犬が増えたのは、ライとの関係を終わらせ、会うこともなくなってからすぐのことだった。
ライとの関係がどういうものであったか、何をされていたのか。実際に現場に遭遇した者はいなくとも、もはや知らない者はいない。
二匹の猟犬もその噂を信じ、最強の猟犬に気に入られ、仕込まれた仔犬を味わってみたい、という下卑た欲望と好奇心を隠そうとしなかった。
「こんなとこで何してんの? 放置プレイ? それともほんとに捨てられちゃった?」
「……っ」
希望は俯いたまま、肩を震わせた。僅かな反応でも、獲物の哀れな姿に、猟犬たちは加虐心が満たされ、楽しそうに笑った。
「かわいそーに、慰めてやろうかぁ?」
隣にいた猟犬が、抑えられぬ欲を見せつけるかのように牙を剥き出しにして、希望に手を伸ばした。
その指先が触れる前に、ガタッと希望が立ち上がる。
「……は?」
隣に座っていた猟犬も、背もたれに寄りかかって前かがみになっていた猟犬も、希望を見上げる。
二匹はぽかんと口を開いて、間抜けな表情を晒していた。
――あ、あれ? 思ってたよりもでかっ……
屈強な猟犬ライと並んでいた仔犬の希望は、最強の猟犬の手練手管に乱され戸惑い、瞳を潤ませて連れ去られていく『清楚な顔をして誘いを拒めないえっちな仔犬ちゃん』として記憶されていた。
体格もライと比べれれば、細身であることは事実だろう。
しかし、仔犬の中では、発育も良く、立派な牙も持っていることを知っているのは普段の彼を知っている者だけだった。
ついでに、ライの前ではとろろん、うるるん、と甘く蕩けて潤んでいた瞳は、本来つり上がっていて、今も呆然としたままの猟犬二匹を鋭く射抜いていた。
『押してだめなら、襲ってしまえば手込めにできる仔犬ちゃん』という勝手な印象と、目の前の成犬一歩手前の立派な〝雄〟が一致せず、二匹の若い猟犬は容易く混乱し、動きが止まっていた。
しかしながら、希望は問答無用で長い脚を高く蹴り上げると、
「……ぅぅうるせええ――!! わかってんなら静かに傷心させろボケェ!! !」
「わああああああ?! ?!」
次の瞬間、周囲に響き渡ったのは聖歌隊任務で鍛えられ、非常によく通る希望の声と、容赦なく蹴り飛ばされたベンチの転がる鈍い音、そしてベンチともにひっくり返された猟犬二匹の悲鳴だった。
「てってめっ」
「グルルルルルル!! !」
「ひっ……?!」
「なっなんだこいつ!?」
何とか立ち上がった猟犬たちに、希望は牙を剥いて低く激しく唸る。唸り散らして威嚇する。
仔犬ちゃんと言っても、もう成犬に近い希望の威嚇は完成されていて、希望を『仔犬のかわいこちゃん』侮っていた二匹は思わぬ反撃に逃げ出してしまった。
「……ふん!!」
希望は鼻を鳴らした。通りかかった仔犬や猟犬がちらっと見ては足早に去っていくが、今の希望にはどうでもよかった。
怒りで真っ赤になった顔と潤んだ瞳のまま、希望は転がったベンチをもとの位置に戻して、また座った。
(……傷心中に声かけんじゃねぇっつーの!! どういう神経してんだクソッタレ!!)
怒りと苛立ちを隠しもせず、どかり、とベンチに踏ん反り返る。
――俺は静かに傷心していたいんだ! それなのに、どいつもこいつも声かけてきやがって!! 下心丸出しなんだよ!! まったく! デリカシーねぇな!! ライさんより、全然怖くないしかっこよくもないくせに、舐めてんじゃねぇよクソが!! !
猟犬二匹を追い払ったところで、一人の時間を邪魔された希望の怒りは膨れ上がる一方だった。
希望とてライと別れたばかりの頃は、悲しみと寂しさに震える夜を過ごしていた。
あの暗くて冷たい黒い猟犬が、夜ととも、攫いに来てくれるんじゃないかという淡い期待を抱いては、朝目覚める度に砕かれる。それでもライを忘れられなかった。
心も、身体も、ライを忘れてはくれなかった。
毎日のように犯されていた身体は数日で疼き始めた。いくら慰めても癒えない、奥の奥まで暴かれ、貫くような快楽は一人では到底得難い。
『こ、このままではライさんみたいにかっこいい人に迫られたら抗えないかも! めちゃくちゃにされちゃうよぉ!! どうなっちゃうの俺?!』
と希望は不安になっていた。
……だが、その心配は無用だった。
希望にとって、ライより魅力的な猟犬なんて、どこにもいないのだ。
確かに声をかけられた。
何なら、暗がりに引きずり込まれたりもした。
「俺のも咥えてくれよ、慣れてんだろ?」などと目の前に見せつけられたりもした。
しかし、希望のムラムラはもはやイライラに変わっていた。
性欲と闘争心は紙一重なのだ。
悲しみも寂しさも欲求不満も、全部怒りに変えてブチ切れた希望は、今みたいに身体を目的に軽率に声をかけられれば唸って威嚇して追い返し、無体を働こうとした奴の耳や尻尾には容赦なく噛み付いてやった。
そもそも、ライのモノとは比べものにならないようなモノを見せつけられたところで、今更希望が臆することはなかった。誰を相手にしてたと思ってるんだ、とさらに怒りがこみ上げ、希望は怒鳴りつけた。
「おととい来やがれ! 次はそんな粗末な××××、噛み千切ってやるからな!! ××××の××野郎!! !」
……などと、惜しみなくスラングを多用して罵倒する希望の姿はあっという間に噂で広まった。普段の愛嬌たっぷりの愛されわんこ希望ちゃんは、どこにもいなかった。
そういうわけで、「ライのお気に入りだった仔犬、アイツもやっぱりやべぇ」と、声を掛けてくる輩は格段に減った。
おかげで希望は一人で、――時折、新しい噂を知らない愚か者が声をかけてくる時以外は――比較的静かに傷心する日々を過ごしていた。
基地の中の街、その広場のベンチで、希望はようやく静かに思いを馳せる。
はぁ、という小さなため息は、先程ベンチごと猟犬を蹴り飛ばした男のものとは思えないほど、憂いを帯びていた。
希望は鞄から、両手で大事に包み込むように、それを取り出した。
雷獣の真っ黒な爪と、緑と青で揺れ動くドラゴンの大きな鱗だった。
希望は目を細めて懐かしそうに、そして寂しそうに微笑んだ。大事な宝物をゆっくり指でなぞり、ため息をつく。
――ライさんの目の色と同じ、緑の奥に青が揺らめく鱗。雷雲みたいに真っ黒なライさんの尻尾と耳、そして心と身体を撃ち抜く稲妻。
これを貰った時は、ライさんにとって、自分が特別な存在になれたような気がした。
もしかして、もしかすると、ライさんは俺のことを? って。
――……だけど、
じわっと視界が滲んで、希望は慌てて、ぶんぶん! と頭振った。
「もう、いい加減に……――っ!? えっ?!」
しかし、次の瞬間、ただならぬ気配に尻尾と耳をぴんっと逆立つ。周囲を見回して、気配の正体を探ろうとしたが、それらしい姿も影も形もなかった。
「……はあぁー、まただ」
希望は深く重いため息をついた。
これで何度目だろうか。ライの気配を感じて、心を乱されるのは。
希望は、ライに呼び出されなくなって最初のうちは、ライの気配を探りながら過ごしていた。
けれど、もともと士官候補生でもない仔犬と最強の猟犬では、同じ基地にいたとしても、行動の拠点と範囲が違いすぎる。
希望に用がなくなった以上、ライが希望の前に現れることは、ほとんどないと言っていい。
実際に希望は、ライと出会ったあの日より前までは、ライのことを希美からの話と噂でしか知らなかった。
問題は、ライが来るはずがないのに、すぐそばにいる気がして探してしまうことだ。
特にこの数日、そんな〝勘違い〟が多かった。
「……俺、おかしくなっちゃったのかな?」
自分自身に呆れて、希望はまたため息が溢れた。
こんなにも自分が諦めの悪い男だとは思わなかった。
――なんて未練がましい……。俺は誇り高き血統書付きのわんこなのに……。
俯くと、ライからの贈り物が目に映る。
希望は寂しさに耐えるように眉を寄せ、愛おしそうに微笑んだ。
――綺麗だなぁ。
指先で真っ黒い爪に触れると、中でバチバチと小さな火花のような、稲妻のような煌きが走った。
ドラゴンの鱗は、擦り合うだけで澄み切った美しい音を響かせる。
――これを見てると、ライさんが俺のこと好きかもって思ってた時の気持ちを思い出せる。
……もうどんなに求めてもあの人が振り向いてくれることなんてないのに――
その瞬間、希望の思考は強制的に遮断された。
鼓膜と足元の衝撃と共に。
〝それ〟は、上から落ちてきた。
「……はっ……え? な…っなに……?」
希望もそうであるように、戸惑いの声が周囲から上がって、ざわめいていた。
轟音と衝撃に咄嗟に身を屈め、耳を抑えた。それでも間に合わなくて、しばらく身体は動かなかった。
一瞬落雷かと思った。
ビリビリと痺れるような空気の震えが似ていたからかもしれない。
でも、すぐに違うと気づいた。
希望は、衝撃と音の発声源を見つめた。
土煙の中で真っ黒な影がゆっくりと立ち上がる。
目だけが暗い光を帯びて鋭く光っていた。
――黒い……らっ、雷獣!? ……いや、違う……?!
雷獣でも落雷でもなかった。
全身から火花を走らせて、
凄まじい怒気を纏った最強の猟犬様がそこにいた。
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