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第45話 仔犬ちゃんの最大の勘違い
……んぎゃぁ――――――!!??
希望は悲鳴を上げた。上げたつもりだった。けれどいつまで経っても声にはならなかった。
――おっ……落ちてきたの!? 雷と一緒に?! ……いや、違う! 雷は落ちてない!
希望は咄嗟に空を見上げた。こんな状況なのに、空は清々しく晴れ渡っていて、なんて能天気な空だこんな時に! と希望は八つ当たりをした。
再び希望がライに目を向けると、ライはすでに立ち上がって、軍服の埃を払っていた。
悠然とした動作に、希望の思考も少しずつ動き出していく。
しかし、再起動した思考は、『彼はなぜここにいるのでしょうか?』という難題を希望に突きつけてきた。
(……たまたま、かもしれない。仕事で、偶然、落ちてきただけかも)
誰に向けてでもなく、希望はうんうん、と頷いた。
(〝誰か〟を探しに来た、とか、会いに来たって感じじゃないじゃん、どう見ても……。そんなオーラじゃないもん。相手を必ず仕留めるってオーラだもん。殺意を纏ってるのは、仕事中だからだよ。うん。そうだよ)
希望は恐る恐る、チラッ、チラッ、と少しずつ、周囲を見回した。
(……標的らしきものいないなぁ……?)
希望は縋るような思いで、キョロキョロと周りを見回した。
ライとの距離は少し離れているが、見渡す限り1番彼に近いのは自分のような気がする。
(……お、俺じゃない……俺じゃない、よね?)
希望はもう一度だけ、とライを見た。
その瞬間、ライの鋭く暗い眼差しがギラリと光り、希望を睨んだ。
「希望」
ライの声は相変わらず、懐かしいほどに低く落ち着いている。決して声を荒げたわけではない。
けれど、膨大な感情と衝動を抑え込むような凄みを秘めて響き、希望の耳にもしっかりと届いた。
そして、悟った。
彼が全身に纏う、重量さえ感じ取れる怨念の矛先を。
(俺だったぁ!! なっ、なんで!? どうして!?)
戸惑い混乱する希望を睨み、ライが方向を定める。
一歩、進んだ。
ゴッ、と鈍い軍靴の音が地面を這って、希望に届くと、一段と身体が重くなって震えた。ビリビリと空気が軋んでいるのも、気の所為ではないだろう。
その発生源が、一歩、また一歩、迫ってくる。
希望には、「なんで、どうして」などと、考えている余裕なんてなかった。
――逃げよう。
希望の決断と行動は早かった。自分の鞄を掴んで、ベンチを飛び越える。その後ろにある建物の間に逃げ込もうと、決意してからおよそ数秒で建物近くまでたどり着いていた。
希望からライまでの距離は、およそ十数メートル。
並の猟犬なら、希望がこのまま建物の間に逃げ込むのを阻止できず、複雑に入り組んだ道を追うことに、少しは手こずることになっただろう。
しかし、相手は軍創設以来の英雄であり、最悪の怪物。最強の猟犬の名を不動のものとするライ・ガーランド。
希望がライを視界から外した一瞬後に、ドゴォッ!! という破壊音が希望の目の前で炸裂した。
「ひぃっ!?」
ライの腕が壁を突いて、希望の行く手を阻んでいた。
建物の壁際に追い詰められ、希望はライを見上げる。思わず後退ったが、壁に背中があたって、これ以上離れることはできなかった。
(あの一瞬で、あの距離を?! は、はや……!?)
希望は壁を突いたライの腕を、横目で見る。
激しい音は、『壁ドン』というより『壁ドゴォ』だった。案の定、ほとんど掌底に近いそれを受け止めた壁には、ライの掌を中心に、歪な放射線状のヒビが走っていた。少し衝撃が加われば、この一部分は崩れ落ちてしまうだろう。それほどの打撃だった。
その哀れな壁を呆然と見つめて、希望は口を開けたまま動けなくなった。
「……希望」
ライの声が降ってくる。
僅かにライが屈んで希望を見つめる気配に、ぶわりと汗が滲んで、思わず俯いた。
「……俺から、逃げ切れるとでも思ったか?」
耳元で囁かれるそれは、暗闇が這い寄るように静かで、不気味なほど抑揚のない、低い声だった。怒っているのか、呆れているのか、何もわからない。
それがとても恐ろしくて、顔なんて見れなかった。
ライの手が壁から離れると、パラパラ、と破片が落ちていく。その手が、今度は希望の方へ伸びてきて、息を呑んだ。
「――ッ!!」
希望の視界の端で、迫る大きな手と破壊された壁が映り込む。希望の脳裏に、壁と同じように砕かれる自分の映像が巡った。
俺もあの大きな拳で、この壁のように粉々にされるに違いない、と。
「ひっ……!!」
小さく悲鳴を上げて、希望は怯えて小さく、身を固くする。ぎゅっと目を閉じて、尻尾は丸まり、垂れ耳がふるふると震えている。
「……っ……うぅっ……?」
恐れた衝撃は来なくて、希望は恐る恐る目を開けた。
「……?」
恐怖と緊張で、滲んだ視界には、ライの大きな手が映った。希望に触れる直前で、止まってしまっている。
あまりにも不自然な位置で停止しているそれを、希望は何度も瞬きを繰り返し、不思議そうに見つめた。
――……あれ? 前にもこんなことなかったっけ?
『俺じゃなくていいくせに』
容赦なく身も心も奪い去ってしまうはずの、ライの大きな手が迫る。捕まったら、また好きなように蹂躙されてしまう、と怯えて目を瞑り、身を固くする。けれど、その手が届くことはなかった。恐る恐る見上げたライの表情は影になって見えなかった。
『……そうだな』
――そう答えたこの男は、どんな顔をしていたっけ?
「希望――!!」
駆け込んできた声に、希望はハッとして顔を上げた。ライの大きな耳もピクッと僅かに動く。
いつの間にか集まっていた人垣を割って、飛び出してきたのは希美だった。
希美は息を切らして、距離を取ってはいるが、鋭く凛々しい眼差しは、ライを睨みつけている。
ビシッとライを指差し、形良い眉を吊り上げ、牙を剥き、唸る。
「希望をいじめるなっ! 許さないぞ!!」
あれぇ? 前にもこんなことなかったっけぇ?
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