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第46話 猟犬くんの大誤算

 話は数ヶ月前に遡る。 「あははっ! あはははっ!」   『女神の最高傑作の一つ』 『氷の精霊の化身』 『女神が御身を写したもうた氷像』    そんなあらゆる賛美を用いても語り尽くせぬ美貌の持ち主が、子供のように、無邪気に笑い転げている。  こんなに馬鹿笑いしてたら造形も崩れそうなものだが、そうはならない。笑い過ぎて溢れ落ちた涙さえ、宝石のような美しさだ。  女神様は丹念にお作りになったんだろうなぁ、希美は曖昧に微笑んで見守っていた。   「アハハッ! ド、ドラゴンの頭って! 馬鹿なのあいつ!? あははっ! お腹痛い」 「……そうですね」    ――……笑ってる内容、最悪だけど。    希美は曖昧な笑顔のまま、最愛の恋人であるユキの言葉に頷いた。    ――ユキさん……自分は俺に不死鳥の生け捕りくれようとして偉い人に怒られたの忘れたのかなぁ……?    どっちもどっちなんだよなぁ、と、希美は『女神の最高傑作』と呼ばれる猟犬二匹を思い浮かべた。      ***     『正直、希望ちゃんって、ライの好みのタイプだと思ったんだよね』  散々笑い転げた後、急に真剣な顔つきで、ユキがそう呟いた。  その時は「またまたご冗談を。あのライさんに限って、まさかそんなこと!」などと思っていたが、ある出来事から、一気に真実味が増した。    希美は見てしまったのだ。  雷獣狩りに同行した時のことだ。    雷獣も怖かったが、ライの方が怖かった。雷獣よりも速く、獰猛で残忍。襲い掛かる化け物をものともせず、冷静に、確実に、息の根を止める姿は、化け物よりもよっぽど化け物に見えた。  サポートとして同行したのに、周囲に被害が出ないようにするのがやっとだ。結局のところ、ライ一匹で討伐まで完了させたと言っても過言ではない。  今の自分と彼との実力の差を見せつけられたようで、希美は「黙って仕事してる時だけは、本当にかっこいいな」と、悔しさに奥歯をぎりぎりと噛み締めたのだった。    そんなライは、狩り終わった後の獲物にはいつも興味を示さない。  多くの猟犬が獲物の1番美味しいところや自身の功績を象徴するような部位を持ち帰っていくというのに、ライはそうしなかった。狩りの最中は、ゾッとするほど獲物への執着が激しく、――ライに限っては滅多にないことだが――どれほどの怪我を負っていても執拗に追い続け、確実に仕留める。それなのに、終わったらほとんど見向きもしなかった。    そんな男が、雷獣には珍しく興味を示していたから希美は驚いた。しばらく眺めた後、結局爪を持ち帰っていたから、「へー、ライさんでもそういうことするんだ。まあこのサイズの雷獣だもんなぁ」と希美はひとり納得したつもりでいた。    しかし、その翌日希望が「ライさんにもらったんだー綺麗でしょー?」とにこにこしながら〝それ〟を持ってた衝撃たるや、想像できるだろうか。  まるで、天を埋め尽くす落雷が我が身に降り注いだかのようだった。やたら興奮した様子でライから聞いたであろう狩猟の様子を話す希望に、「俺もその場にいたよ」と伝えるのも忘れて、希美はただただ相槌を打つことしかできなかった。  希望の持つ『ライからの贈り物』を見つめて、希美は思わず、この世の終わりが近いのかなと空を見上げてしまった。空は清々しく晴れ渡って、世界が終わる気配はない。これが現実だった。  なんとか立ち直った希美は、ふと考える。    ――……ドラゴンといい雷獣といい、ライさんは加減ってものを知らないの?    その後も何故か順調に進んでいく、最悪の上官と、自分と瓜二つの兄弟との関係の変化に戸惑う希美をよそに、ついに希望はデートまで許してしまった。   恐るべしライさん。さすがはNo.1の猟犬。人懐っこいが、懐く人はかなり選んでるはずの希望を容易く誘い込むなんて。    ――……あ、もしかして、ライさんの今の獲物は希望!?    『希望ちゃんってライのこの好みだと思ったんだよね』というユキの言葉もあって、希美は心配でこっそりと後をつけてしまった。二人のデートを見守っていると、さらに恐ろしいことが起きていた。    天下無敵の最強の猟犬が、仔犬に手取り足取り狩りの手ほどき。  挙句の果てに、狙った獲物は確実に仕留める猟犬様が、仔犬とかくれんぼ。ふりふりと揺れる尻尾を一瞥して、通り過ぎていく。   「ライさん! ここだよぉ♡」 「ああ」   (……ああ、じゃねぇっつーんだよ! 見えてただろッ!?)    ――……なーんて、怖くて言えないけどね!?    ……その数日後から、希望はライの雑用係に〝指名〟されたのだ。  ライと出会った当初は、「希美をいじめるなんて、絶対許さないぞ!」とライへの怒りを露わにしていた希望だが、指名された雑用係の仕事は文句も言わずに引き受けていた。むしろ、少し誇らしげで、楽しそうだった。  それに、希美が心配していたライの馴れ馴れしい過激なスキンシップも、どうやら満更ではないらしい。困ったような顔で瞳を潤ませているだけで、噛み付いたり睨んだりしないことがその証拠だった。    ――希望が楽しそうならいい……いいんだけど……でも……。    希望のガードの固さを信じ、希望の気持ちを最優先に考え、希美はあえて、口を挟まないようにしていた。忠告はいくらでもするが、選ぶのは希望だ。  しかし、相手は〝あの〟ライである。    希美はその優秀さと頑丈さ、プライドの高さから、幾度となくライの暇潰しのおもちゃにされて、命と貞操を必死に守ってきた。  その矛先が希望に向いてしまったら。       「……僕は君を選んだこと、後悔してはいないけど……」    ユキも希望を心配していた。  幼い頃から、そして今日に至るまでのライを誰よりも知っている。だからこそ、責任を感じているようだった。   「あんなやつを野放しにしてしまった。そのせいで、希望ちゃんに何かあったら……僕は……」 「ユキさん……」    ユキが俯いて、白銀の長髪が流れ、ベールのように彼の心を包み込んでしまう。表情は見えないが、細い肩は震えていた。  希美は今にも砕け散ってしまいそうな、か弱く、細い肩を支えようと、そっと手を添える。   「もし希望ちゃんに何かあったら……あの男、今度こそ殺してやる」 「ユ、ユキさん……?」    肩に添えようとした希美の手がビクッと止まる。  少し顔を上げ、何かを睨む美しい眼差しは、あまりに冷たく鋭い。言葉とともにユキから滲むのは明確な殺意だった。凍りつくような冷気となってユキを覆っている。希美は絶対零度のブリザードに飲まれたような錯覚さえ起こした。    そう、雌に見紛うような、……否、女神か精霊かと称される美しく繊細な外見をしているが、ユキもまた、『女神の最高傑作』と謳われる猟犬のひとり。  ライと組んでいたのは恋人だからというだけではない。美しさと、尋常ならざる強さを兼ね備えてこその異名なのだ。    そんな二人が殺し合いをしたら。本気の本気で、殺意を研ぎ澄ませ、争ったら。    ――……希望になにかあったら俺も悲しいし、ライさんを許せない。しかし。    ……俺、守れるかなぁ。希望と基地。  ……いや、基地は諦めよう。        希美は、静かに窓から彼らの様子を眺めた。  希望が任務から帰ってきたライに駆け寄っていく。  希望は心なしか軽やかで、弾んだ足取りだった。    ――まあ、いいか。希望が楽しそうなら。      ***      その日は、突然訪れた。   「ライさんとはもう会わない。心配かけてごめんね」  と、目元を真っ赤に腫らした希望が笑った。   「ど、どうしたの?」 「なんか、俺じゃなくてもよかったみたい」    だから、もういいんだ、と希望が笑う。    希望がライの誘いを拒んで、他の人でいいだろと言ったら、そうだな、と答えたらしい。なんという男だ。許せない。  しかし、激しい怒りの奥で、心底ホッとした。    毎日張り切ってライの雑用係の仕事に向かい、楽しそうで、浮かれているようにさえ見えた姿が嘘のように、最近の希望はずっと寂しそうだった。ある日を境に外泊が増え、気怠げで腰を庇うように過ごしていることも多かったので、何かあったんだろうということはわかっていたが、聞けなかった。  時折一人で遠くを見つめてため息をつき、落ち込んでいるように見えるのに、自分や友達が近付くと元気に笑って隠してしまうから、見守ることしかできなかったのだ。    ――これ以上希望が傷つかずに済むなら、それでいいのかもしれない。   「そっか……」 「ライさん俺の事好きじゃなかったみたいだし」 「えっっっ」    それはどうかな!? という言葉を、希美はごっくんと飲み込んだ。    悔しいがライは優秀な猟犬だ。  ユキも強いが、……細かいことや忍耐が必要な任務は得意じゃない。  どの分野にも一匹は、ライと同じくらい優秀な猟犬はいるが、どの分野にも精通してて、全てにおいてトップクラスなのはライだけだった。    だから、忙しい。  すごく忙しい。    任務から任務へ、遠征先から遠征先への移動。  そんな日がほとんどだ。  それなのに疲れた顔ひとつ見せないのがまた悔しい。    希美も、ライとの任務に同行する際は、なんとか喰らいついていこうとするが、やっぱり敵わない。希美は若い猟犬の中でも優秀で頑丈な方であると自負していたが、流石に長時間の緊張状態に限界を迎えて、仮眠や休憩を先に取ってしまう。しかし、多少回復してから戻ってみると、ライはその間もずっと任務を遂行していた、ということも多かった。 『……随分長い昼寝だったな。もうお家帰れば?仔犬ちゃん』 とライに鼻で笑われて、希美は悔しくて仕方なかった。    そんな男が、基地に帰ってきて、再度出発するまでの僅かな時間をすべて希望に会うことに費やしているんだから、もうわけがわからない。    ――……いや……、わからなくはないんだけど、答えを出してしまうことを俺の心が受け入れられそうにないよ……。  あの、ライさんが……、なんて。    ……あの!!    遊び半分で俺の命と貞操と尊厳を踏み躙ろうとしてくるような!! 最低最悪のクソ上官が!!  希望を愛しッ……    …………なんて!! そんなこと!! 信じない!!    希美は心の葛藤を抑え込んで、不自然な沈黙を誤魔化すように、ンンッと咳払いをした。  あれだけの贈り物を貰って、執拗に迫られて持ち帰られて、片時も手放さず側に置かれていながら、それでも希望が「俺のこと、好きじゃないみたいだし」と結論付けてしまった理由が、希美にはさっぱりわからなかった。   「え、えーっと……、ど、どうしてそう思ったの?」 「……だって、好きって、言われてないもん」 「そっかぁ」    ――うわあ――っ! あの人言わなさそう!!    普通なら、愛する人とは、お互いに愛を伝え合いたいものだろう。  相手の気持ちを知りたい、自分の気持ちを知ってほしいというそんなありふれた、至極真っ当なはずの欲求を、ライさんは持たない。もはや絶望的と言っていいほど、その発想すら出てこない。言っても理解できないだろう。    希美は希望より少しだけ、ライのことが解る気がした。 「照れて言えない」なんて可愛いものではなく 「言わなくても分かるだろ」なんて不器用なわけでもなく  感情や想いというものを、わざわざ相手に言葉にして伝える必要性を、その価値を、喜びを、ライには見出だせない。  ライは相手の承諾や許可を求めるつもりがないからだ。    ――……本当に、自分勝手で、どうしようもない人だ。    〝そういうとこ〟だぞ、ライさん。  ライさんとユキさんが別れた原因、俺はライさんのそういうところだと思ってるからな。  余計なお世話だし、怖いから言わないけど。    でも、希望は……。   「っ……」    希美は希望に声をかけようとして、きゅっと口を噤んだ。    ――本人が言葉にしない想いを俺が勝手に伝えるのも失礼だ。  ……だから言えない。  こうして希望を手離した。  それがライさんの答えなんだ。    ……認めたくないけど。    これがあの人なりの愛なのかもしれない。  ユキさんと別れた時みたいに、離れていくものを追わないことが。  手放して解放することが。    最低最悪の大嫌いな上官であっても、俺はその愛に対しては敬意を払いたい。  ……だから、希望には言えない。    ――希望は悲しそうだけど、これで良かったんだよ。    笑顔を見せながら、深く傷ついているであろう希望を見つめて、希美はひとり、口を閉ざすことを選んだ。    ***    平穏な日々が訪れて、はや一ヶ月。  それを打ち砕いたのは、希美のもとに駆け込んできた、一匹の猟犬だった。  任務の報告を終えた希美がいた本部の一室、その扉が大きな音を立てて開いた。   「の、希美くんはいるか!?」    血相を変えて飛び込んできたその猟犬を見て、希美は驚いて「何事ですか?」と立ち上がって駆け寄った。  いつもは温厚で落ち着いた猟犬だった。長身に逞しい体格、優しく穏やかな性格に、任務では冷静かつ的確な指示をしてくれる。名家の生まれであることと、本人の才覚から、若くして複数の部隊を指揮する隊長にまでなった猟犬だ。  確か、軍にとって『最高武力』という位置づけのライについても、彼は管理を任されていた。    そんな彼が、ノックもせずに、ドアを突き破らん勢いで駆け込んできたのだ。一大事に違いない。    しかし、彼は希美の顔を見てきょとん、と目を丸くした後、ほっと表情を和らげた。   「すまない、出動の話ではないんだ」    曖昧な笑顔を浮かべて、彼はこう続けた。   「実は、最近ライくんの機嫌が凄まじく悪くて……、あっもちろん、仕事は速やかに問題なく終わらせるんだが……今日はもうどうにもならなくてね……。その怒気だけで新人の子は倒れるし、目が合ってしまうとそれだけで、どんな猟犬も圧力で圧し潰されて身動きがとれないほど怯えて……。  そんな状態で何処かに向かっていってしまったからてっきり君を……いや、とにかく君が無事で良かった」    日頃から、ライの所業に頭も胃も心も痛めているであろう善良な猟犬は、心から安堵したように爽やかに微笑んだ。   「流石にもうそんなことはないと思うんだが、万が一があっては、と慌ててしまって……急にドアを開けたりして、無礼を許してくれ」 「い、いえ、大丈夫です……」 「もし見かけたら、身の安全を確保してから連絡してくれ」 「わかりました」 「それではまた」 「はい」    パタン、と静かに扉がしまった後、希美は窓まで駆け出し、突き破って飛び降りた。  見事な着地で通りがかった仔犬や猟犬が「ええ??」と上を見上げる。しかし、次に彼らが希美に目を向けた時には、すでに駆け出していた。   「の、希望――――!!」    隊長は知らなかったんだろう。  最近ライがご執心の『ノゾミ』が希美ではなく希望であること。興味の対象が変わっていたこと。  重さも執着度合いも桁違いになっていること。    ――……いや! それはさすがに、俺もわかってなかった!      舐めていた。    最強の猟犬の執着を、希望に対する愛を。  ……いや、これを愛と呼んでいいのかわからないけど。  愛ゆえに、手放した……なんてことはなかったんだ。  理由はわからないけど、つかの間の自由を与えてみただけだ。    そしてそれで自分はストレス溜めてたんだ!!  なんっっっ……って、難儀な男なんだ!!  超迷惑!! もはや災害!! 存在が災厄です!!        希美が全力で駆け抜けていくと、もうすでに遅いのだと理解した。    なんという禍々しいオーラだろうか。  心なしか遠くの空は暗く、暗雲が立ち込めていた。比喩ではなく、現実だ。  天気予報は晴れだったのに、遠くで黒い雲の奥から雷獣の唸り声が聞こえてくる。ライの怒りが呼び寄せたと言われても、今なら納得できる。   「希望をいじめるな! 許さないぞ!!」    人垣を割って、飛び出して、思わず叫んだ。  だが、希美は少し後悔した。    全身から火花を走らせて、凄まじい怒気を纏った最強の猟犬様の瞳が、希美を射抜いた。

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