48 / 59
第48話 猟犬様には解らない
――数ヶ月前に、こんな光景があった。
最強の猟犬様と、標的となった若き猟犬くん。そして、兄弟を守るために立ち向かった、同じ顔の凛々しき仔犬ちゃん。
今もまた同じような光景が繰り広げられていた。
以前と異なるのは、今回猟犬様の標的となったのは、猟犬くんではなく、仔犬ちゃんであったこと。駆けつけたのは、仔犬ちゃんではなく、若き猟犬くんであったこと。
そして、以前は猟犬様が仔犬ちゃんに獲物を贈っただけで、大人しく帰っていったが、今回は――
三匹が揃った次の瞬間、若き猟犬くんは、最強の猟犬様によって地に叩き伏せられ、踏みつけられていた。
「の、希美ぃ――!! ?」
一瞬遅れて、仔犬ちゃんの悲鳴が響き渡る。
――なにこれどういう状況?!
自らの致命的な勘違いを含めた様々な要因が重なり、想いは交錯し、今ここで大規模な衝突事故が起きてしまったことを、希望はまだ知らない。
ただ、静かに底知れぬ怒りと殺意を纏う最強の猟犬様の標的が自分であることと、助けに来てくれたであろう兄弟が瞬きの一瞬で無力化されたことだけは理解した。
猟犬様は――ライは、自分の目の前まで迫っていたはずなのに、今は希美を叩き伏せ、その背を踏みつけている。
その希美の腕がぴくり、と動いて、僅かに呻く声が聞こえた。意識はあるらしいと、少しだけホッとする。
直後、希美が力を振り絞るように、顔を上げた。
「希望! 逃げて!」
「えっ……でっでも」
兄弟を置いて逃げるなんて、と希望が躊躇っていると、希美を見下ろしていたライがゆっくりと希望を見た。
ひっ! と希望が後退る。
「俺はいいから、逃げろ!! 早く!!」
「……うぅっ……希美……!」
「ごめん!!」と叫んで、希望は逃げ出した。
遠ざかる背中に、希美はほっと息をついた。
だが
「う、ぐっ……!」
急激に上からの圧力が増した。
決して踏みつける力を加えたわけではないだろう。ただ、視線が希望から希美へと映っただけで、もはや指先一つも動かせないほどの重さが全身に伸し掛かる。
――死ぬかもしれない。
普段からライが希美へ行っているような、『遊び道具』への戯れとは到底比べ物にならない力の差に、死の予感が過ぎる。
「……いい度胸だな、小僧」
「ひぃっ」
極限の緊張状態の中で、暗闇の奥底から響くような低い声に希美は思わず悲鳴を上げた。
(声怖っ!!『小僧』なんて初めて言われた!!)
からかうような、嘲笑うような、『クソガキ』とは普段から呼ばれていたが、聞き慣れない単語がこれほどの迫力を持つとは知らなかった。
力が込められた背の上の固く大きな軍靴の感触に、希美は覚悟を決めた。
そんな希美の視界の端に、白銀が煌めく。同時に、冷気の刃が頭上を切り裂いた。
「……っ!」
ライの圧力が僅かに揺らぎ、希美はハッとして身を躱す。咄嗟に距離を取るように離れると、目の前に、白銀を纏う猟犬が降り立った。
「ユキさん!」
「大丈夫?」
ユキは、美しい髪を靡かせて振り向く。「ちょっと待っててね」と微笑むと、再びライと対峙するように、睨みつけた。
ユキの一閃は、並の猟犬ならば、……否、例え猟犬数匹がかりで狩猟にあたるような大型魔獣であっても、一瞬で両断されるであろう一撃のはずだった。
しかし、今のそれは、ライの頬をほんの僅かに掠めただけのようだ。
「希美、無事か?」
「恭介さん!」
茶色の垂れ耳に、短く丸まった尻尾。駆け寄ってきた恭介の姿に、希美は少しほっとした。彼もまた希美にとって頼れる先輩猟犬の一匹だ。
「さすがにアレの相手できんのユキくらいだと思って、連れてきた」
「あ、ありがとうございます! 助かりました」
「今日こそ相討ちでもしてくれると有り難いんだけどな」
「こ、困ります!」
恭介の言葉は、憎まれ口などではなく、紛れもなく、嘘偽りのない本心からの言葉だ。
ライとユキ、そして恭介は数々の死線を乗り越えてきた同期であるはずなのに、信じられないほど仲が悪かった。
しかし、ライとユキ、二匹の最強クラスの猟犬が睨み合う姿に、一気に周囲にも緊張が走る。
基地にいる者なら知っている。この二匹がこうして向かい合う時、何が起こるのかを。
希美もまた、まだ立ち上がれずに膝をついたまま、息を飲んだ。
先に動いたのはユキだった。
長く艷やかな白銀の髪を煌めかせて、腕を組む。僅かに首を傾け、笑う姿は、ひたすらに麗しい。
「希望くんに振られたからって希美くんをいじめないでよね!」
「ユキさーん! 言葉を選んで!!」
ひたすらに麗しいというのに、ライを前にしたユキは、ふふんっ! と勝ち誇った子供のようだった。それでもなお造形は『美』以外の何物でもない。
ライの無表情に変化はないが、希美は慌てふためく。
ライはユキの行動や言動に苛立つと、何故か希美の管理不足を責めてくるから気が気でない。理不尽極まりないことだが、「俺のせいじゃなくない?」と抗議したところでライには通じない。
その隣で、恭介がぶはっと笑った。
「ああ、ついに振られたのか。最近の地獄のような機嫌の悪さの原因それかよ。ふざけんな。すげぇ迷惑」
「俺もそう思います」
「でもまあ、めでてぇな。祝杯あげようぜ」
「恭介さん? そんな笑顔見たの初めてですけど?」
普段は童顔に似つかわしくない、深い眉間の皺が刻まれた恭介がケラケラと笑っている。
ユキといい恭介といい、ライに対して物怖じしない猟犬は珍しい。希美とて「ざまあみろ」と一言言いたいけれど、恐ろしくてとてもできなかったというのに。
ライさんをイジるなんて、と希美は恐る恐るライに視線を向けた。
「……? 何が?」
――え、えぇ……?
ライは怒り狂うどころか、不思議そうに首を傾げていた。
「だめです恭介さん、ライさん全く身に覚えがないって顔してます」
「なんでだよ」
「あの人振られたことないからわかんないのかなぁ」
「どこまでもムカつく野郎だな」
クソがッ! と恭介が吐き捨てる。
けれどユキは、付き合いが長く深い分慣れたものなのだろう。はあ、とため息をついて、ライを睨んだ。
「もう逃げられちゃってるんだから諦めなよ。希望ちゃんと関わんないで」
「あいつが誰を想おうが俺には関係ない」
「はあ? 何言ってんの?」
ユキの表情が、呆れ、苛立っているように僅かに歪む。
「こっちは希望ちゃんがお前のこと好きみたいだから仕方なく見逃してたの。なのに、大事にできなかったのはお前だろ」
徹底的な言葉とともに、ユキが強く睨む。
しかし、ライは――
「……? 誰が何?」
まるで、偶然〝その言葉〟だけが聞き取れなかったかのような
あるいは、まるで〝その言葉〟が初めて耳にする異国の言葉だったかのような
そんな、心底不思議そうな顔で、首を傾げている。
希美は目を見開いて、その光景を見つめた。
(あれ? この人、まさか……嘘だろ……?)
希美は思わず、ユキに目を向けた。
ユキもまた、僅かに目を見開いていた。ゆっくりと込み上げる感情に、形の良い眉を寄せ、美貌を悲しげに曇らせる。
それから、これみよがしに、額を手で抑えて、大きなため息をついた。
「……もう、ほんっとにどうしようもない……」
「あ?」
ライが眉を寄せるのと合わせて、再び緊張が走る。空気がビシリッと軋んだ。
「意味わかんねぇな。どうしようもねぇのはお前だろ」
「お前よりマシだよ」
「あ?」
「は?」
睨み合う二人の沈黙は一瞬だった。
いつの間にか真っ黒に染まった空から、降り注ぐ雷鳴。
それが開始の合図だった。
次の瞬間には、世界の終わりみたいな光景が始まっていた。
壁の破壊音と砕ける石畳の道。標識はへし折られて、窓に突き刺さる。砲弾でもぶち込まれたかのように抉れた地面。衝撃で砕け散る、窓ガラスが降り注いで、いっそ美しいな、と希美は遠い目をしていた。
「ぎゃぁ! また喧嘩が始まったぞ!」
「警報鳴らせぇ!! 総員その場からとにかく離れろ逃げろー!!」
巻き添えを喰らいそうになった周囲では、猟犬も仔犬も逃げ惑う。悲鳴もそこら中で響き渡っている。
――基地、守れそうにないな。
希美はちらり、と恭介を見た。
案の定、眉間には深い皺が刻まれ、大きなツリ目は忌々しげに最強クラスの猟犬二匹を睨みつけている。
「……恭介さんこのままじゃ基地が……」
「……大丈夫だ、あとのことは任せろ」
「恭介さん……!」
恭介は希美の心配そうな表情に気付くと、落ち着き払った様子で、ふっ、と軽く笑う。
希美は思わず、カッコいい! と瞳を輝かせた。
完全に私情で、周囲への被害も迷惑も顧みずに荒れ狂う二匹に、爪の垢でも煎じてねじ込んでやりたい。
希美の眼差しに、恭介は余裕綽々といった笑みを浮かべた。
「今日の責任者俺じゃないから全く問題ねぇ」
「この世代自分勝手が極まってますね!?」
ともだちにシェアしよう!