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第50話 猟犬くんだけが解っている
研究所に入ってすぐそこは広いエントランスだった。
本来なら外部の者を阻むセキュリティー関係の設備は撤去され、残っているのは奥の受付カウンターくらいだ。当然、照明も機能していない。
見慣れぬ光景が不気味で、希望は入り口付近で足が竦んだ。
引き返そう、とした直後、雷鳴と共に閃光が襲って、薄暗いエントランスを照らし出す。
音と光の襲来に希望の耳と尻尾がビビビッと硬直し、カウンターの奥へと飛び込んだ。
轟音と閃光が続いて、雨の音も激しさを増すばかりだ。希望は耳を塞いで、カウンターの下に身を潜めていた。
――……ああ、そうだ、雷といえば……。
鞄の中を探って、それに手が触れる。そっと覗き込むと、外の天候と呼応するかのように、中の暗雲が蠢き、火花のような稲妻がぱちぱちと弾けていた。
――綺麗だなぁ……。
これだけは、誰にも渡したくなかった。
ライにだって、渡したくない。
彼にとって、自分が特別な存在〝だった〟という証。
そう思えた時間があったという、唯一の証明だった。
――だから、逃げなきゃいけないんだ。
どんなに酷いことをされても、玩具でしかなかったとしても、好きになっちゃったんだもん。
でも、ライさんに気づかれたら、きっと粉々にされる。俺の恋心も、大事な宝物も。
身も心も、奪われてしまったけど、この恋心だけは守るんだ。
雷鳴も閃光も気にならない。希望は静かにそれを抱き締めた。
――……好きになって、なんて、もうそんなわがままは言わないから
「……もうちょっとだけ、好きでいさせて」
その瞬間、雷鳴ではない音が響き渡った。
入り口の頑丈そうな扉が圧し曲がって、壁に激突する光景が希望の目に入った。
扉は希望が隠れているカウンター越しの背後にあったはずだ。
(……へ?)
希望はそっと、カウンターから抜け出し、恐る恐る入り口側に目を向けた。
扉が破壊された入り口は、歪ながらかろうじて長方形を維持している。雷鳴と共に降り注ぐ閃光で、その形に光が差し込むはずなのに、大きな影が阻んでいる。
ゆらり、ゆらりと揺れる尻尾も、大きな耳も真っ黒だ。
漆黒の影の中で、深緑の瞳だけが光っているような気がする。
雷鳴の合間に、希望の耳に響いたのは、硬い床を歩く靴音。
ごつ、ごつ、と固くて重い足音。
「……希望「ぎゃあああああ――!!!!」
声が届く前に、希望は恐怖に耐えきれず叫んだ。
叫んだと同時に、エントランスの中心にあるエスカレーターを駆け上る。
ただの階段と化していたエスカレーターだったが、希望は一瞬にして二階の奥へと走った。
恋心よりも先に、自分が粉々にされそうな恐怖から、希望はあっという間に消えていった。
「…………………………」
遠ざかっていく金尾と悲鳴を見送って、真っ黒い大きな影――ライは、誰にも悟れないほど静かに小さく、溜息をついた。
***
「ああ! なんということだ!」
「仔犬が雷に怯えて奥に!」
扉を破壊したライの後ろでは、雷獣の討伐及び仔犬の救出の為に集められた猟犬達が焦り、次の作戦を叫んでいた。
そんな集団の一番後ろで、希美は静かに首を横に振る。
――……いえ、どっちかというと怖いのは、雷ではなくライさんです……。
「救出隊は討伐隊に続け! 雷獣が敷地内で出現したとの情報もある! 仔犬を発見次第、保護し、離脱しろ!」
指揮を取る猟犬の凛々しい声が、雷鳴と雨音にかき消されることなく響く。他の猟犬達がそれに応えると、一度頷き、研究所の奥へと目を向けた。
「では、直ちに中に」
「入るな」
「えっ!?」
指揮官の声を遮ったのは、ライだった。
「誰も入るな」
そう続けて、ライはゆっくりと奥へと進んでいく。
入り口付近まで進んでいた猟犬達がざわめき、指揮官からの指示を求めるように視線が集まる。
指揮官はハッとして、ライを追った。
「しかし! 一匹では危険ッ……」
「入るな」
背を向けたまま、ライが僅かに振り向く。
その眼差しに、歴戦の勇士である猟犬達でさえ、息を飲み、硬直した。
「俺の、獲物だ」
鋭く光る緑の瞳を前に、猟犬達はそれ以上言葉が出なかった。
悠然としたライの背を見送り、ようやく猟犬達は我に返った。
「さ、さすが最強の猟犬!」
「大型の雷獣に一匹で挑もうとは……!」
敬意、畏れ、憧憬……様々な感情を込めて囁き、ざわめく彼らを遠い眼差しで眺め、希美は静かに首を横に振った。
この場にいる猟犬の中で、希美だけが解っていた。
――……違います……その人が獲物って言ってるの仔犬の方です……。
ユキは別の場所で出現した雷獣狩りに向かってしまって、この場にはいない。緊急事態において、指令塔となる恭介もまた、呼び出されて行ってしまった。
そして、自分は周囲への被害が出ないように、任務が与えられている。希望を探したいが、最上位権限を持つ『最強の猟犬』の作戦領域になってしまった研究所にはもう入れない。
つまり、ライを止める者はもう誰もいないということだ。
――前には雷獣、後ろにはライさん。
ああ、希望! 無事であれ!
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