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第51話 猟犬様と追いかけっこ(2)①
二階の奥には、本来ならいくつものセキュリティーを超えなければならない研究室が数多く存在していた。顕微鏡、ロボットアーム、コンピューター、パネル等、備え付けの設備はそのまま残っている。
壁はすべてガラス張りだ。機密情報持ち出させない為、規則を侵す者を見逃さない為、などの理由で死角を作らないようガラス張りになっているということは、希望が知るはずもない。
ガラスではない幾つかの扉は、閉鎖されていた。
それを知らない希望は開くはずもない扉をガチャガチャ、と試しては、重い足音と不穏な気配を感じて逃げる。やけに音が響いて、それが希望の恐怖心を更に煽った。
それに加えて、入り組んだ作りになっているせいで、走っても走っても、出れる気がしない。
追い詰められて、希望はやっと開いた扉の中に逃げ込んだ。
「あっ……」
隠れたくて、飛び込んだ部屋はガランと何もなく、ただ広かった。ベッドがあったであろう場所に、いくつか跡が残っている。それ以外は、空っぽの棚やロッカーが並んでいた。
部屋に入れば、窓があるのではないかと期待したが、何もなかった。2階くらいの高さなら飛び降りれるかもしれない、という希望の期待は脆くも崩れ去った。
窓がないなら、脱出口のない部屋に逃げ込んでしまったことになる。このままでは袋の鼠だ。
部屋を出ようと再びドアノブに手を伸ばしたが、足音が近づいて来たのに気づいて、思わず「ひっ」と小さく悲鳴を上げてしまう。
悲鳴は、部屋の外までは聞こえなかったのかもしれない。ごつ、ごつ、と重い足音は、早まることはなかった。
けれど、確実に近づいてくる。
それが、部屋の前で止まった。
「……ッ!?」
今度の悲鳴は、自分の手で塞いで、何とか抑え込んだ。
ドアノブが、鈍い音を立てる。ガチャ、と静かに動く。だが、扉が開くことはなかった。
部屋に逃げ込んだ際に、希望自身気付かない内に、鍵をかけていたようだ。
開かないことに気づいて、希望はハッとして後退る。部屋中を見渡し、隠れる場所を探した。
ドアの外にいる者もまた、鍵の存在に気付いたらしい。ドアノブは、ガチャ、ガチャ、と確認するように、ゆっくりと動いている。
一瞬ほっとした希望の脳裏に、圧し曲がった扉が壁に激突した一階での映像が過ぎった。
目の前の扉は、一階の扉よりも薄い。破壊され、無残な姿にされるのも、時間の問題だと気付いた。
震える足を、一歩、また一歩、動かす。少しでも扉から離れようと、後退っていく。
身を隠すところを求めて、縋るように、部屋中を見回して、また気付いた。
ドアノブを回す、音が止んでいた。
***
――数秒後、
希望が予想した通りに、扉は破壊されていた。
壁に激突するまでは至らなかったが、蝶番は折れ、蹴り破られた形に歪み、部屋の中央でガラクタと化している。
「……」
入ってきたのは、当然だが、ライだった。
一歩入って、部屋中を見回している。
希望は両開きの、ロッカーのような鉄の箱に逃げ込んで、息を潜めていた。扉には細い隙間があって、ライの姿もかろうじて見える。
(どっどうしよ……こんなとこすぐ見つかっちゃう……!)
静まり返る部屋に、重い足音がゆっくりと響く。
希望がいるのは、部屋を半分ほど進んだあたりの壁側だ。
ライが奥へと進めば、その分、希望に近付くことを意味している。
一歩進む度に希望の心臓は口から飛び出しそうだったが、両手で塞いで必死に留めた。
ごつ、ごつ、と、足音は続いている。
それが、突然止まった。
希望は、息を飲んだ。
足音の止まった位置を、希望の耳はしっかりと捉えていた。
――近くにいる。
ライの纏う重くのしかかるような気配も感じられる。
恐る恐る、隙間から部屋の様子を覗き込んだ。
希望の隠れているロッカーから数歩先に、歪んだ扉が転がっている。
そのすぐ横に、ライが立っていた。
ライは静かに歪んだ扉を見下ろしていた。表情はよく見えないが、蹴破られた扉が無残な姿を晒しているのだから、怒っているに違いない。
扉と同じようにへし折られた自分の姿を想像してしまい、希望はぞっとして背筋も尾も耳も、震わせる。
希望の視線の先で、不意にライが顔を上げた。
次の瞬間、
鋭い眼差しが希望を射抜いた。
「――ッ!」
咄嗟に希望は覗いていた隙間から離れた。
カタッと微かに音が鳴ったが、希望には気にかける余裕はなかった。
――み、みられ……っ
薄暗い室内だったが、ぎらりと光る眼が、確実に自分を捉えた。
希望はぎゅっと小さくなって身を隠す。扉を開けられたら意味のないことだったが、それでもしゃみこんで、震えていた。
不気味なほど静かな時間が過ぎる。
沈黙を破ったのは、重く響く足音だった。
(……あ、あれ?)
希望は顔を上げた。
足音は聞こえるが、近づいては来ない。むしろ、遠ざかっていくように聞こえた。
希望はもう一度立ち上がり、隙間から外を覗いた。
ライは部屋の出入り口に向かっていく。
(……見られてなかったの?)
出入り口は当然扉がなく、長方形の枠だけが残っている。ライは一度も振り返ることなく、そこから出ていった。
姿が見えなくなって、希望が耳を澄まして足音に集中する。間違いなく足音は遠ざかって行き、そのまま聞こえなくなった。
数分か、数十分か。
ライの気配が完全に消えてから、希望はそっと扉を開けた。古びた扉はぎぃっと錆びついた音を立てる。極力音が鳴らないように、慎重に抜け出した。
部屋の外は静かだった。
ガラス張りの研究室がどこまでも続いていて、部屋よりも暗い。そのせいか、扉を失った長方形の出入り口は、ポッカリと穴が空いているように見えた。
落ちたら戻れない、深い穴が、ポッカリと口開けて、獲物を待っているかのように。
足が竦んだが、ずっとここにいても、安全ではない。ライが戻ってこないとも限らない。
先程と同じようにロッカーや棚に隠れても、今度は一つ一つ開けて、確認してしまうかもしれない。
希望は、もう一度だけ床に耳を当てた。
――……いない!
意を決して、希望は立ち上がった。
とにかくこの場を離れなければ、と駆け出す。
ライの足音が消えていった方角はわかっている。建物の中がどういう構造になっているのか把握できていないが、ライが向かった方と反対側へに逃げれば少しは遠ざかるだろう。
希望は部屋を出ると同時に、暗く長い廊下へと目を向けた。
「気は済んだか?」
その直後、彼が消えたはずの暗闇から、声が。
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