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第52話 猟犬様と追いかけっこ(2)②

 足音は遠ざかって、消えたはずなのに。    どうして。  なんで。    呼吸が乱れる。  心臓は、混乱で止まりそうな脳を動かせと、必死に、どく、どく、と血流を送り込む。  はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返して、希望は暗闇へ目を向けた。    希望が脱出したばかりの部屋、その出入り口――”ポッカリと空いた穴”――のすぐ横に、ライはいた。    腕を組んで壁に寄りかかり、希望を見ている。  暗がりで、じっと見つめている。  暗く冷たい瞳は、何も語らない。    希望がライに気付くと、壁から背を離し、希望に向き直った。   「……気は済んだか?」    ゆっくりと首を傾けた表情からも、感情は読み取れない。    低く冷たい声は、落ち着いているように聞こえた。少なくとも、空から落ちてきた直後の、稲妻そのもののような苛烈さはない。    けれどこうして、音もなく、ゆっくりと近づいてくるライは、暗闇から抜け出て形を為した化け物に見えた。    希望は思わず後退った。……つもりだったが、埃っぽい床を僅かに擦っただけだった。  ライはもう目の前に迫っているのに、足が動かなかった。    ――ああ、ダメだ。逃げられない。    硬直していた身体が、急に弛緩する。力が入らない。  恐怖が薄れていく代わりに、底の見えない真っ暗な穴に落ちていくような、絶望と諦めが全身を覆っていく。    ――……俺、なんで逃げてたんだっけ?    どんなに抵抗しても捻じ伏せられる。好き勝手に蹂躙されて、心も体もどろどろにされてしまう。  今までもそうだったのに、何故今更、こんなに必死に逃げ回っていたんだろう。    触られたら気持ちよくなっちゃうし、好きになっちゃったのに。    ――……あーあ。    もういいかなぁ、諦めても。  ライさんが俺のこと好きじゃなくても、気持ち良くしてくれるし、身体さえ許してしまえばその間は側にいてくれる。いい子にしてれば、構ってくれるかも。今までみたいに。 『お気に入り』の『玩具』としてなら。    ライさんが気が向いた時に、攫って、キスして、抱いてくれるかも。  求められた時にだけ求められたことをすれば、気持ち良くしてくれる。勘違いさせてくれる。    ライの手が伸びてくるのに、どこかほっとしてしまった。  これで追われる恐怖からは解放されると、安堵した。    ――もう、いっか。    俺は、この手を受け入れればいいだけ。  与えられるままに、この雄が望むように、狂えばいいだけ。    それ以外はいらないんだ。  俺がライさんのこと好きとかどうとか、ライさんにはどうでもいいことだもん。  俺の気持ちなんて、心なんて、この人はいらないんだ。    希望はそっと目を瞑った。  ライの手を受け入れようとした。    これでまた、ひとりぼっちの朝を迎える。  残り香と僅かな体温の名残りだけが、癒やしてくれる、寂しい朝を。        ――……どうして、気配が残っていたの?        ハッとして目を開けた。    ――……ああ、そうだ。思い出した。    どうして、あり得ないはずの優しい夢を、現実と錯覚したのか、を。        情事の最中は何も考えられない。  気持ち良くて怖くて、しがみつくのがやっとだ。  だけど、快感と情欲の嵐が去っても尚、離れるのが嫌で手を伸ばす。  疲れ切った身体では何も掴めなくて、悲しくて、寂しくて、怖くて、不安で、どうしようもなくなる。    そんな時、大きな身体がぎゅっと抱き締めてくれる。ゆっくりと丁寧に触れて、何度もキスして、擦り寄って、髪を梳いて、目尻に零れた涙を舐め取って、またキスしてくれる。丹念に可愛がってくれて、気持ちよくて俺は眠ってしまう。    朝目覚めたら、僅かに自分以外のぬくもりを感じる身体と、残り香が、昨夜の出来事を夢ではないと教えてくれる気がしたんだ。  だからずっと諦められなかった。    〝そうじゃないんだ〟って。    抱き締めてくれるのは、嬉しい。何度もキスして、丁寧に触れて、甘くて暖かくて、溶けていくように眠るのは心地いい。    だけど、そういうことじゃないんだ。    本当は、本当は、      俺だって、ライさんを抱き締めたかったのに。          バチンッ、と。    薄暗い静寂に、鋭い音が響き渡った。  希望がライの手を、強く弾いた。  誰にも――おそらくは目の前にいる希望でさえも――、気付かないほど僅かに、ライが目を見開く。    弾かれた手の奥から、強い光を宿した黄金が現れる。ライに挑むように、鋭く睨みつけている。   「……やっぱりやだ!!!」    静寂を引き裂いて、希望は駆け出した。        貰ってるばかりじゃ嫌だ。  可愛がられてるだけじゃだめなんだ。  俺は好きな人を、愛したい。  ちゃんと、愛し合いたいんだ。  心なんて必要ない、なんて、言わせない。    ――だから、このままじゃだめだ!!    折れかけた心を立て直して、希望は力強く、逃げていった。      ***       「…………………………」    遠ざかっていく金尾をまたも静かに見送って、ライは弾かれた手を見下ろす。  それから、ゆっくりと、歩き出した。    暗闇に、ごつ、ごつ、と、重く固い足音だけが響いて、やがて消えた。

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