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第53話 猟犬様と追いかけっこ(2)③
がむしゃらに廊下を駆け抜けた希望の視界が急に開けた。ガラス張りの迷路を抜けると、広々とした空間に繋がっていた。壁の材質がさらに古めかしい。ここだけ別の施設のようだ。
大きな螺旋階段が壁に沿って、上へと向かっている。中心が吹き抜けで、幅は広いが手すりがない。
どこに通じているんだろう、と上を見上げたが、天井らしきもの以外は暗くて何も見えなかった。
躊躇っていると、背後の暗闇から足音が響いた。
希望は飛び上がって、慌ててその階段を駆け上がる。
階段なら、どこかで扉ぐらいはあるだろうと僅かな可能性を信じて走る。
(でもさっき、部屋に窓無かったんだよなぁ……)
扉があったとしても、閉鎖されていたら。
このまま、天井までどこにも逃れられなかったら。
あんなに高いところで追い詰められたら、本当に逃げ場なんてない。
吹っ切れて、多少なりとも冷静になった頭の片隅で、次々と不安が過ぎる。迷いが希望の足を鈍らせた。
ふと、足音がしないことに気づいて、ハッとして下を覗く。
ライは階段の前で、希望を見上げていた。希望と目が合うと、ライは視線を逸らし、階段を進み始める。
駆け上がる希望に対して、ライは速度を変えずに、相変わらずゆっくりと歩いている。ごつ、ごつ、と響く足音に、希望は背筋を震わせた。
「なんで追いかけてくるの!! やだって言ってんじゃん!! 放っておいてよ! あっちいけ!!」
恐怖も追われるストレスも、とっくに希望の限界を超えていた。希望は全てを怒りに変えて、八つ当たり気味に叫ぶ。
「……お前が逃げるからだろ」
足音が重く響く中、ライの声は静かなのにしっかりと聞こえた。
希望は答えが返ってきたことに驚いたが、それでも足を止めなかった。
「ライさんが追っかけてくるから逃げてんの! ヤダって言ってるのに!!」
「……お前が何度拒もうが、他の誰を想おうが、俺には関係ない」
「なんでだよ! 俺の気持ちをもっと尊重しろ! 優しくしろ! 大事に扱え!」
「……無理だ」
「なんで!!」
「……………」
――……あれ?
足音もライの返事も聞こえなくて、希望は足を止めて吹き抜けの螺旋階段を覗き込む。声が届かないほど離れたのだろうかと期待したが、そうでもなかった。
けれど、ライは足を止めていた。上にいる希望からは、表情は見えない。僅かに視線が下に向いている。
「……?」
不思議に思ってじっと見つめていると、ライが前を向いた。再び同じ速度で重い足音が響いてくる。希望との距離も縮んでいく。
希望の問いに対する答えはないようだ。
無言の追跡が、希望には怖くて仕方なかった。
「う、ううっ……!」
希望には、ライが何を考えていて、何をしたいのかわからない。
怒っているはずなのに、静かで落ち着いた声にも、重く固い足音にも、表情にも、眼差しにも、感情が見えない。
それが怖くて、希望は震え、目尻には涙が滲んだ。
「なんで追いかけてくるんだよぉ! もういいじゃん!」
足が縺れそうになりながら、希望は再び走り出した。
「なんで俺なの? 俺じゃなくてもいいんでしょ?! 無理矢理連れて行くくせにエッチなことばっかりで、朝起きたらもういないし! ヤッたらすぐどっか行っちゃうし! デートも一緒に行ってくれないくせに!!」
「……はあ?」
ライが足を止めて、顔をあげた。
「前はあんなにいっぱい口説いてくれて、俺の知らないことも教えてくれて、きれいなものを見せてくれて、嬉しかったのに! また狩りデート連れてってくれるって言ってくれたから、楽しみにしてたのに! ヤッたらなんにもなしってなんだよ! ライさんの嘘つき!!」
「……?」
それまで、感情らしい感情が消え失せていたライが、訝しげに眉を寄せる。
「ライさんにとっては俺なんてただの玩具だったかもしれないけど……っ……俺はもうライさんのこと好きになっちゃったのに!! 弄ぶな馬鹿!! スケベ!!!」
「……はあ……?」
希望は立ち止まったライに気付かず走り続ける。一度溢れ出した感情を、言葉を、止めることは希望にはできなかった。
「俺とはデートしてくんなかったくせに、他の子とは楽しそうにデートしやがって! 誰でもいいなら俺とデートしてくれればよかったじゃん! そしたらずっと勘違いしてられたのに!! ……だからやだ! もう嫌い! あっちいけ! うわぁぁん!!」
ライは首を傾げて、僅かだが表情を歪めた。
一方的にキャンキャン喚く仔犬の背中を、睨みつける。
「…………ふざけんなよ。それは、お前が――」
希望には、その先が聞こえなかった。
雷鳴と天井からの轟音、この世のものとも思えない獣の声でかき消されて。
――え?
希望が見上げた視界に映ったものは
崩れ落ちる天井。
荒れ狂う稲妻の閃光。
空を埋め尽くす真っ黒い雲。
そして同じ色をした、大きな何かと鋭い爪。
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