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第55話 猟犬様と追いかけっこ(2)⑤

 雷獣の断末魔がブツリと途切れて、周囲には静けさが戻った。  飛び散った血が希望まで届くことはなかったが、壁という壁を塗り潰すような夥しい血の量が、戦いの壮絶さを物語る。  いや、壮絶だったのは雷獣の最期だけだ。  この中に、ライの血はほとんどないだろう。    惨劇を目の当たりにして、希望はただ呆然としていた。  ライの指先は血に濡れている。これまで何度も触れたはずの大きくて熱い手で、何倍も大きな化け物を八つ裂きにしたことが、信じられない。  血の海に佇む黒い猟犬を見つめていると、ライが希望の視線に気付いて振り向いた。   「ひっ……!」    希望が青褪め、肩を震わせた。戦闘の直後であるせいか、冷静な表情の奥、鋭い眼差しに、牙に、獰猛で冷酷な本性が露わになっている。  剥き出しの殺意に晒されて、希望は震えながらライを見つめていた。   「…………」    ライの視線が希望から、自身の掌に移る。  べっとりと纏わりついた血を、軽く腕を振って払う。僅かに血が瓦礫に飛んだが、穢れを清めるには至らなかった。  けれど、構わずライは歩き出した。  彼の後ろには赤い足跡が残されていく。ゆっくりと近づいてくる。    ――こわい。    高い知性と獰猛さを兼ね備えた最強の猟犬。  軍屈指の英雄で最大の災厄。  血の匂いを纏う、残忍で冷酷な黒い悪魔。    人伝ではあるが、猟犬ライの噂は知っていた。  今までも、時折血の匂いが掠めることは確かにあった。  でもこんな姿は知らない。    ――俺も嬲り殺されるかもしれない。    物言わぬ肉塊となった雷獣を見つめて、息を飲む。   (……いっぱい怒らせた。きっと八つ裂きにされる)    だけど、触れられたら、だめなんだ。  身も心もどろどろにされてしまう。  何もわからないくらい気持ちよくされてしまったら  俺がライさんを好きだってことがバレてしまう。    自覚してしまった以上、もう隠し通せる自信はなかった。  触れられて、乱されてしまったら、自分が何を言ってしまうかわからない。  そうなったら、俺も、こんな恋心も、粉々に打ち砕かれるに違いない。 『余計なことを考えるな』って。    全部塗り潰されて、消えてしまう。    ――いやだ。    ライが一歩近づくと、希望は後退った。  震える足に力を込めて、逃げようと踏み込む。   「――あッ!」    だが、思う通りに身体が動かず、足にも力が入らない。当然バランスを崩し、逃げようとした勢いのまま転んでしまった。   「うっ、うぅ……ッ」    平らな石の上なら大したことはない擦り傷も、歪な瓦礫の上では深く抉られる。それに加えて、全身が落下の痛みを思い出して、ズグズグと鈍く痛んで、起き上がれなかった。   「……動くな」 「い、いやだ!」    擦り剥けた足も、打ちつけた額も、痛々しく血を流しているというのに、希望はライから逃れようと足掻く。痛む身体を引きずって、逃げようとする。   「うぅっ……!」    傷が痛むのか、脅威が迫っているせいか、あるいはそのどちらもか。  希望はぐす、ぐす、と小さく泣きながら、必死に身体を引きずっている。   「…………………………」    逃げるのに必死だった希望の耳に、それは何故か聞こえた。  小さく、静かな、溜息が。   「……?」    ずび、と鼻を啜って、希望は振り向いた。  その瞬間、たった数歩で距離を詰めたライが、希望の腕を掴んだ。   「あッ……! いやっ! やだ!! はなして! いやだ!」    腕を掴まれて、身体が少し浮いた。それでも、ライの腕を掴んで、必死に藻掻く。離せ、離せ、と腕を振るい、身体を捩った。けれど、ライは微動だにせず、力を緩めることもない。  ただ静かに、希望を見下ろしている。   「……大人しくしろ」 「やだ! 離せ! あっち行って! 触んないで!!」    ライの手は、相変わらず熱く、力強い。けれど、掴まれてる腕に痛みはない。    絶対離してくれない。逃れられない。大きくて強い、手。  ライと別れてから、その手で攫ってくれることを願っていた。    懐かしい熱さがじくじくと腕から伝わってきて、希望はそれだけで泣きそうだった。  ライの目を見ていると、挫けてしまいそうで、希望は必死に目を逸して、暴れて、ライの手を拒んだ。   「…………………………」    はあ、とまた溜息が聞こえて、希望は動きを止めた。先程のそれも、聞き間違いではないんだ、と希望は気付いた。    けれど、呆れているとも、疲れているとも取れるような曖昧なそれが、ライと結びつかなくて、希望は首を傾げる。    ――……? な、なに……?    ライの表情を覗き込むように、そっと顔を上げる。  その前にライが希望の腕を離した。  数センチ浮いていた身体が、重力に従って落ちる。僅かな衝撃だったが、今の希望の身体では耐えきれず、倒れ込んでしまった。  全身を痛みが襲って動けない。   「うぅッ……」    なんてことするんだ! 大事に扱え!  ……と、叫びたかったが声も出せずに、震えて呻く。  上半身だけ起き上がらせて、抗議するようにライを見上げて睨んだが、そこにはいなかった。  ライは希望の足元に膝をついて、その怪我をじっと見ていた。    ――……なに?    何を考えてるの? と、希望は首を傾げる。    戦闘で僅かに乱れた前髪が、俯き気味の顔を隠すように、垂れている。その奥で、暗くて深い眼差しが垣間見えるが、何も語ろうとしない。  ただ、深い緑に青が揺らめく。貰ったドラゴンの鱗のように。    それをライの眼差しの代わりにして、ずっと自分を慰めていたけど、本物の暗く深い色には到底及ばない。  痛みも恐怖も忘れ、うっとりと眺めていた。  ……が、急にハッとした。   「あ!」 「……?」    ――俺の宝物は!?    キョロキョロ、と慌ててかばんを探す。逃げる時も大事に抱えていたけど、落ちる瞬間からの記憶がない。  自分が埋もれていた瓦礫の近くに目を向けた。幸いにも、かばんは瓦礫の隙間に落ちていた。  希望は痛む身体を引き摺り、隙間に腕を突っ込んだ。手を伸ばせば、なんとか届くかもしれない、と思ったが歪な瓦礫に阻まれて、引っかかってしまう。  諦めきれず、強引に腕を伸ばしたり、瓦礫を押してみたりと奮闘するが、びくともしなかった。  しょんぼり、と肩を落とし、尻尾も耳も項垂れる。すっかり落ち込んだ希望は、その背中をライがじっと睨んでいることに気付かなかった。   「……退け」 「……?」    希望が顔を上げると、ライが横を通り、瓦礫の前に立った。  左足を軸に、右足を後ろへ振る――その動作までは希望にも見えた。  次の瞬間には、瓦礫が粉砕された音と衝撃が響いた。    心の準備ができていなくて、――否、できていたとしても結果は変わらなかっただろうが――項垂れていたはずの、希望の耳と尻尾がびょッ!! と飛び上がった。  放心している希望を置き去りにして、ライは木っ端微塵にされた瓦礫を乱暴に蹴り飛ばしている。   (……どういうこと? どういう力でどう蹴ったらこんなことに??)    希望が呆然としている間に、ライが瓦礫の中から、かばんを引きずり出し、希望に投げつけた。   「……っ! あっ、ありがと……!」 「………………」 「……??」    ライはじっと希望を睨んでいる。希望には不思議で仕方なかった。  そんなに露骨に、口をへの字に曲げて、不服そうにしているのに、何故わざわざ、俺の手助けを?    ライの行動で助かったとはいえ、希望には理由が理解できなくて、怖かった。今も隠すつもりさえないような不機嫌な顔で睨んでくるから尚更だ。  ライの鋭い眼差しに怯えてはいたが、希望はかばんの中身を確認した。  大事な爪も鱗も無事だった。  頑丈そうな爪はともかく、鱗は薄いから割れて粉々になってしまったんじゃないかと思っていたが、傷一つなく美しいままだ。  希望はほっとして、宝物をかばんごとぎゅっと抱き締めた。      その時、ミシッ……、と  鈍い音をを立てて空気が軋んだ。      ――へ?    顔を上げると、先程までのへの字の口なんて可愛いものだったと思えるほど、ライの機嫌が著しく損なわれていた。不機嫌のオーラが暗雲となって、今にも雷の雨を降らしそうだ。   (なっなに? なんで?! 何に怒ったの?!)    恐ろしさのあまり、希望はますます力強く、ぎゅぎゅぅっとかばんを抱き締めてしまう。ぶるぶると震えて、瞳は潤んで涙は零れ落ちるギリギリまで溜まっていく。  けれどライは容赦なく希望に近付いて、手を伸ばしてきた。  我に返った希望は、「ひっ!」と小さく悲鳴を上げて、預かっていたライの上着を頭から被る。咄嗟のこととはいえ、今の希望にとって、〝この場で一番安全な場所〟がライの上着の中しかなかった。    持ち主であるライの前で、上着の中にいる希望はぶるぶると震え、隠れきれてない尻尾は丸まっている。   (……あれ?)    剥ぎ取られるでもなく、怒られるわけでもなく、奇妙な沈黙が続いた。恐る恐る上着を捲って、ライを見上げる。  ライの手は希望に向かって伸びていた。けれど、ライはその手で何も掴むことなく、ゆっくりおろした。   「………はあ」 「??」    今度はしっかりと聞こえた。さっきの溜息と違って、苛立ちが滲んでいる。  希望がそっと上着の中から出てくると、ライはその前で膝をついた。眉を寄せ、じっと希望を睨む。   「俺でいいだろ」 「………………はい?」    希望は首を傾げた。  それを見て、ライの表情や眼差しが、苛立ちでさらに歪む。   「死骸から剥ぎ取った物に泣きつくくらいなら、俺でいいだろ」 「……?」    ぽかん、と希望は口を開けたまま、呆けた表情でライを見つめる。        ――何を言ってるんだろう、この人は。    ライさんは俺のじゃないじゃん。ライさんが好きなの俺じゃないんだから。  ライさんが来てくれないから、代わりで我慢してるのに。  本当はライさんだけがいいのに。  ライさんじゃなきゃダメなのに。    『俺じゃなくてもいいくせに』  『誰でもいいなら俺とデートしてくれればよかったじゃん!』       (……ん? あれ? ……あれ?!)    結びついてはいけないものが結びついた気がして、ぶわわ、と冷や汗が溢れた。   (……おれ、もしかして、……なんか、すごく、とんでもないこと……!? ……あ、あれ……?)    『俺でいいだろ』    ――……あっ?! あれぇぇ??!!    頭の中で、これまでの出来事が全部ひっくり返って、ごちゃごちゃに掻き混ざって、目眩がする。   (えっとつまり……え?! わかんない!! ど、どういう……っ、どういうことっ?!)    頭の中は混沌の渦となり、視界がぐにゃりと揺れる。  そんな視界にライを捉えて、ハッとして我に返った。    血塗れの恐ろしい姿に気を取られて気付かなかった。ライの頬に切り傷がある。 返り血の跡にしては不自然な鋭い一線は、確かに切り傷だった。   「……ああ――っ!!??」 「?」    突然叫んだ希望に、ライが眉を寄せ表情を歪めた。  だけど希望はもうそれどころではなかった。  混乱していた頭に、さらに新しい衝撃が加わって滅茶苦茶に塗り替わっていた。   「ライさん怪我してる!」 「は?」    希望が指を差すと、ライは訝しげな表情で傷に触れる。それから、ああ、と何でもないような答えを返した。  しかし、視線を戻すと、希望の瞳が見る見るうちに潤んでいく。  は? とライはほんの一瞬言葉を忘れた。   「…………こんなかすり傷で騒ぐな」 「ごめんなさい!!」    ライの言葉を遮って、希望は叫ぶ。  ライはまた「は?」と首を傾げた。   「お、俺がこんなとこに逃げたからっ、ライさんが怪我し…っ……うぅっ…っうわああ――ん!!」 「……?」    限界まで潤んだ瞳から涙が溢れさせて、わんわん泣き喚く。天井や壁が歪に崩れ落ちた空間で反響して、ライの大きな耳にもぐわんぐわんと響く。   「……?」    ライはやたら響き渡る声に眉を寄せ、「なんで泣き出した?」と首を傾げた。  希望は恐らく雷獣との戦闘で負傷したと勘違いしているだろうということは解る。しかし、何が「俺のせい」なのかは分からない。   「……これは、」    ユキが、とただ事実を伝えようとライは口を開いたが、希望が飛び付いてきたことで阻まれた。  近づけば泣きながら逃げて、捕まえようものなら全身で拒絶して暴れていた男が自ら抱きついてきたことに、ライは目を見開いた。    ――は?    飛びついてきた身体を受け止めて、少々バランスを崩す。ライにしては珍しく、ほんの一瞬思考を停止させてしまったせいだ。  ライがゆっくり視線を向けると、希望はライの頬の傷を舐めていた。必死に傷を舐めとって、ライに縋りつく。   「うぅぅ、ライさんが怪我しちゃったぁ…うぅっ…うわあぁん」    ごめんなさぁい! とまた泣いて、傷を舐める。くぅーんくぅーん、と鼻で鳴く。時々ぐりぐりと首元に頬や鼻を擦り寄せて、また泣いて、傷を見ては舐める。   「……?」    ライには意味が解らなかった。    あれだけ大事に抱えていたかばんは放ってあるし、怪我なら希望の方がよっぽど重傷だろう。血に塗れた姿に怯えていたはずなのに、今は自分が汚れるのも構わず抱き縋っている。  自分の名を呼び、他には目もくれず、小さな掠り傷を癒やそうと必死に舐める。   「………………」    ライは希望越しに、自分の掌を見つめた。  多少血を振り払ったとはいえ、べったりと纏う紅は簡単に消えるものではない。    何度も希望に触れようとしては止めて、離していった手。  その手を希望の背中に回し、ライは希望の好きなようにさせることにした。    天井が崩れ去った塔の中心で、暗雲が晴れた空からは光が差し込んでいた。

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