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第56話 最強の猟犬様から逃げられない①
希望は、びゃんびゃん泣いた。
最強の猟犬からの追跡、雷獣の出現、最近平穏な生活を送っていた希望にはあまりにも過度なストレスの嵐だったこともある。
限界まで追い詰められていた希望は、ライの傷を見て、緊張の糸がぷっつりと切れて、泣いた。
やがてぐすぐすと鼻を啜るだけになった頃、ライの傷から血が出なくなったのを見てほっとしたように泣き止んだ。
泣き疲れ、逃げ続けていたせいで精神だけではなく体力も限界だったのだろう。ライにしがみついたまま、熱くて逞しい身体にくっついて、うとうととし始めたところで、希望はようやく我に返った。
微睡んでいた意識が覚醒する。ライがじぃっと見ていることに気付いて、ひゅん、と息が止まり、たらん、と力が抜けていた尻尾も、ビビビッと伸びた。
「……気が済んだか?」
「ふぁっ…ふぁぁっ……!」
希望は瞳をうるうると潤ませて、耳と尻尾をぶるぶると震わせた。
またかよ、とライは呆れたように溜息をついて、おもむろに立ち上がる。
ライの膝の上にいた希望は、身体が傾いて「うわっ」と悲鳴を上げた。床にぶつかる衝撃に備えて両目をギュッと閉じたが、そうはならなかった。
転げ落ちると思われた身体は、ライによって抱き抱えられていた。軽々と横抱きにされて、ぽかんと固まる。けれど、すぐに我に返り、ぶわわっと顔が真っ赤に染まった。
慌ててライの胸を押し返す。
「あ、歩く、歩くから……!」
「……黙ってろ」
「ひゃい!」
ライの低い声に、希望がぎゅぎゅっと小さくなる。耳も尻尾もぶるぶると震えている。
何なんだよその機能、とライはまた溜息をついた。
廃墟特有の静寂を取り戻した建物に、ライの足音が響く。固く、重く、ゆっくりと響くその音が、ほんの数十分前までは恐ろしくて仕方なかったのに、今はほっとする。
希望の傷だらけの身体には、ライの軍服が羽織らされていた。
希望は、少し鼻を近づけた。
――ライさんの匂い。
ぎゅっと抱き寄せると、より強く彼を感じることができた。
満足すると、次はライの胸に耳を当てる。厚い胸板の奥で、心臓の鼓動が聞こえた。
足音と同じように、ゆっくりと、重く、強く、響く。
――やっぱり、好き。
ライさんは俺じゃなくてもいいかもしれない。
だけど俺はライさんがいい。ライさんが好き。
「ライさん……あの……」
希望は恥ずかしさと恐れから、視線だけでライを見上げた。
「逃げてごめんね……? ……気が向いたらまた会ってくれる……?」
「……」
ライが立ち止まった。
黙って、希望をじっと睨む。
まだ怒ってるのかなぁ、と希望が見つめていると、ライは、はあ、と溜息をついた。
「……なんで俺がお前の気が向くまで待たなきゃなんねぇんだよ」
「……?」
希望は首を傾げた。
「……ライさんの気が向いたらって意味だよ?」
「ああ?」
「ひっ!」
「……」
やたら低く、凄みの効いた声に、希望はまた縮み上がった。またしてもぶるぶると震える希望に、ライは舌打ちをして、一度息をついた。
それから、じろり、と希望を睨む。
「気が向いたから誘ってやったのに、断るどころか逃げ回ってた奴がよく言えたな?」
「ご、ごめんなさい……でもライさん俺とのデートは嫌だって言ってたから……」
「……あ?」
希望はしょんぼり、と俯いた。だから、ライの表情は見ていなかった。
「なのに他の人と一緒にデートしてたし……」
「……」
「ユキさんばっかり見てたし……」
「……」
「だ、だからもう俺じゃなくても、いいのかなっておもっ……ひっ!」
希望が再度顔を上げた時、それ以上言葉を発せなかった。
一瞬にして膨れ上がった、怒気があまりにも凄まじくて言葉を失った。
落雷のように落ちてきた時みたいだった。
爆発するんじゃないかと思うほどに膨れ上がった〝怒り〟は、次第に収まっていく。
収まっていくというより、抑え込んでいるのかもしれない。
希望を抱く手にも、当然力が入っている。けれど、抱き潰さないように抑え込もうとする身体の葛藤が、びりびりと希望の肌にまで伝わってくる。
「……お前が、」
「ひっ!」
ライなりに、激情を抑え込んでから口を開いたというのに、希望はまたぶるぶる震えている。
「……」
ライは、また、息をついた。
そして、ゆっくりと息を吸い込んで、フー、と長く、強く、息を吐く。
沈黙が訪れ、ライは動かなかった。
(な、なに?! 何の時間!? 嵐の前の静けさ?!)
希望はずっとぷるぷる震えて、耳も尻尾も身体も小さく縮こまって、嵐を待った。待つしかなかった。
数秒の沈黙の後、ライはゆっくり顔を上げて、姿勢を正した。
凛々しく冷たい横顔は、凪のような静けさは、いつものライだ。久しぶりに間近で見る彼の瞳は、相変わらず暗く深く、底が見えない。
だが、何故だろう。
ブルーホールのように暗く深い瞳の奥に、じっと息を潜める怪物の存在を、希望は感じ取ってしまった。
相変わらず、ぶるぶると怯える希望を見下ろして、ライは静かに、口を開いた。
「……そうか、わかった。俺が甘かった」
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