2 / 25

第2話

「ユキト君、学校は?」  32歳で助教授という肩書きを手に入れたとき、小さなマンションの一室をローンで購入した。  長いあいだ妻とふたりきりだったこの部屋に、いまは若い男が出入りしている。  4人掛けテーブルの右隅に腰掛け、買ってきたコンビニ弁当の蓋を嬉々として開いているのは、あのとき公園で拾ったヤンキー。  名前をユキトという。いまどきの若者らしい繊細な名前だが、細面で身体つきも華奢な彼にはよく似合ってる。 「今日は休み」  尖らせた唇でそう答えて割り箸を手に取るユキトに、私は慌てて塗り箸を差し出した。昔から割り箸を使うのも、誰かが使っている姿を見るのも苦手だ。  無言で箸を受け取ろうとする手に、私が責めるような視線を向けると、 「サンキュ」  むず痒いような、照れくさいような、そわそわとした仕草でユキトが言った。  塗り箸を使って欲しいという要望を、単なる私の我が儘だと気づいていないところが年相応に子供らしく、可愛いと思う。 「学校は本当に休みか。自主休校じゃないだろうね」 「違うって」  開校記念日で、なんてもっともらしいことを言う彼に、私はそこの卒業生だが開校記念日はたしか冬だったはずだ、とは言えなかった。  嘘をつくのはいけないこと。出会ってから何度も言い聞かせてきたはずだったが、彼なりに学校へ行きづらい理由もあるのだろう。学外での交友関係が派手だった彼が学校で浮いた存在だということは本人から聞いていたし、クラスのなかで特に親しい友人がいないということも知っている。  どうすれば彼が毎日学校へ通う気になるだろうか。悩んでみても、そのときになってはじめて自分は彼の保護者でもなんでもなく、彼の人生に口を出せる立場にないことを思い出す。  だが、彼とこうして会うようになって一年。出会ったころの突っ張った態度はすっかり鳴りを潜め、今では少しやんちゃな高校生といった感じにまでなんとか落ち着いた。学校にも以前とくらべてだいぶ行くようになって、最近は教師との仲も良好だと言っている。  それが本当なら、私の存在も彼にとって少しはプラスになっているのかもしれない。 「そうだ。明日登校する前にウチへ寄ってくれないかな。渡したいものがあるから」  口いっぱいにおかずを詰め込み、行儀悪く頬を膨らませながら首を傾げるユキトに思わずため息が出る。  私の呆れ顔に気づいたのか、彼は慌てて口の中のものを呑み込んだ。グラスに冷たい緑茶を注いでやると、飲み干す細い首に浮き上がった喉仏が、卑猥な生き物のようにゆっくりと上下した。  私はなんとなく、彼の喉元から目を逸らした。 「渡したいものって?」  わざと窓の外に向けた視線を戻すと、ユキトはいつものあどけない表情でこちらを見ている。 「……新しい参考書。注文してたのが届いたから、書店で受け取ってくるよ」 「参考書」  あからさまに嫌そうな顔をされて、元教育者としてのプライドがにわかに刺激される。おかげで、さっき頭をよぎった邪な想像はあっという間にどこかへ吹き飛んだ。 「おすすめの参考書だ。ウチの学生もけっこう使ってたらしいよ」 「センセイの大学、頭いいじゃん。俺はべつにそこまで……」 「大丈夫。キミは飲み込みが早いから」  華奢な指先で箸を弄ぶユキトを眺める。滑らかな頬がほんのり紅潮して、彼が照れているのがわかった。  実際、ユキトは頭が良い。学校を休みがちなせいで授業には遅れをとっていたが、ここ一年の努力の甲斐もあって、春には無事3年生へと進級した。出席日数は正直ぎりぎりだったが、本人は留年も覚悟していたらしく、私のところへ嬉しそうに報告に来たのを覚えている。  公園でユキトを拾った次の日から、彼は私の〝塾〟の生徒第一号になった。あまり学校に行っていないと言った彼に、私の方から提案したことだ。最初のうちはしぶっていた彼も、ちょうどいい休憩所を見つけたといったふうに、いつからか頻繁にこの家を訪れるようになっていた。  塾とはいえ、ここでは学校で学んだことを一通り復習するだけで、あとは私の専門分野から彼が興味をもったことを少しだけ教えている。彼は生徒第一号ではあるが、これからさき生徒を募る予定はないので、実質、ユキトは私の最初で最後の生徒だ。  勉強は嫌いと言いながら、学ぶこと自体は彼の性に合っているのか、若く柔らかな頭は私の与える知識をスポンジのように吸収した。このままもう少し成績を上げればどこかの大学へ進学するのも夢じゃないと思っている。 「生徒が頑張る姿を見るのが、〝先生〟は一番嬉しい」  本心からそう言うと、黒い瞳が、そわ、とテーブルの上を彷徨った。鋭い箸の先が油でくたくたの唐揚げを突き刺そうとしたところで、一瞬迷って、今度はそれを慎重に摘まむ。唇に近づけ、上目遣いでこちらを見る。  なにも言わずに眺めていると、褒められたと思ったのか、嬉しそうに大きな塊を一口で頬張った。大きくつぶらな瞳も相まって、その姿はまるで冬に備えるリスだ。 「いっぺんに入れたら喉に詰まるよ」 「わはっへ……げほっ、んんッ」 「わかってないじゃないか。ほら、お茶のんで」 「ん」  私たちの関係にやましいところは一切ない。塾に関しても、彼からびた一文受け取ったことはない。  あえて〝なに〟とは言わないが、もちろん、その他の見返りも要求してない。  名前をつけるならば、父親ごっこ、子供ごっこ、といったところ。  子供のいない自分の、少し早い老後の趣味のようなもの。  ユキトは落ち着く場所を求め、私は暇を持て余していた。  私たちの利害は、いまのところ完全に一致している。 「今日さ、図書館いってきた」  ぼうっとしていたところに声をかけられ、私は慌てて背筋を伸ばした。  私が話を聞いていなかったのを察して、油まみれの艶やかな唇がつんと尖る。最近のユキトは大人に甘えることを覚えたのか、ずいぶんと素直に感情を露わにするようになった。  たぶん、それは良い傾向だ。 「ごめん。ちょっと考え事してた。なにか面白い本はあった?」  参考書以外の本にも、ためになることはたくさん書いてある。時間があったら図書館に行きなさいと言った言葉を、彼は覚えていてくれたのだろうか。だとしたら嬉しい。 「面白い、っていうかさ。先生の本見つけた」 「私の?」  拗ねたような表情は一変、悪戯を思いついた子供の顔になる。 先生が隠してた恥ずかしい秘密を見つけてやったぞ、とでも言いたげな顔だ。 「そ。何冊もめっちゃ並んでて。先生って本書いてんだって、ビックリした」 「講義で使うことがあるから。でも、あの手のものは難しい書き方してるし、退屈だっただろう」 「いや、まぁ、中身はさっぱりだけど」  箸先で器用にゴマ塩を摘まみながらユキトが呟く。 「最初は先生と同じ名前のヤツが書いたのかなって思ったんだよ。でも、読んでみたらすぐに先生の本だってわかった」 「へぇ」  小説家でもない私の本は娯楽性を重視してはいない。ほぼ参考書として作られた本に、著者の個性など現れないと思っていた。 「個性なんてあるかな」  「あるよ。文字にさ、声がついてる感じ。先生が話してる言葉が、そのまんま文字になったみたい。使ってる単語とか。ああ、先生ならこういう言い方するだろうなって。俺にはすげぇわかるんだけど」    ごめん、うまく言えないわ、とユキトは苦笑する。  私は、自分の胸がひどく高鳴っていることに気づいていた。  心臓が早鐘を打ち、靄のかかった視界を一条の光が貫いた気がした。 「読んでるあいだずっと、先生が隣にいる気がした」  彼は私の文章に私の姿が見えるという。ただ知識を伝えるだけの、あの無機質な文字のなかに。  彼は私を感じている。  その目で、耳で、感覚で。  〝私〟という人間を、その身体が覚えている。 「なんでだろ。しょっちゅう一緒にいるからかな」  見上げる瞳が眩しい。  人工の灯りに照らされた瞳じゃない、本物の輝きがそこにはある。  テーブルの下、震える手を抑えきれない。なにか言わなくてはと思っても、まったく適当な言葉が浮かばない。  できるなら、いますぐユキトを抱きしめたい。抱きしめて……。  ―――抱きしめて、なにを言おうというのだろう。  これはあまりにも危険な感情。  妻を失い、魂の抜けたような暮らしのなかで、ユキトの存在はいつしかあまりにも大きくなっていた。いまや私の生活は彼を中心に回っている。  未来ある彼にこんな感情を抱くなど、単なるエゴでしかない。私との関わりは彼にとって人生の一通過点に過ぎない。  一瞬、ほんの数年。  長くて、十数年。 「先生。ここにある本、何冊か貸してよ。俺でも読めそうなのあるでしょ」 「……図書館で、借りてくればいい」 「やだ。目の前に書いた本人がいるじゃん」  無様な声を出さないようにするのが精一杯だった。喉の浅いところが乾いてくっついて、溢れそうになる言葉をどうにか押し止めてくれた。 「書斎の本棚から、好きなのを持って行きなさい」  答えの代わりに返ってきたのは、溢れんばかりの笑顔だった。  また何か書こう。  妻を亡くしてからはじめて、もう一度筆を執ろうと思った。  私がいなくなったあと、彼が本のなかに私を見つけてくれれば、それはとても幸せだ。

ともだちにシェアしよう!