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第5話

 妻が倒れたとき、毎日のように病院へ顔を出す私に妻は、「不謹慎なんだろうけど、あなたとたくさん一緒にいられて嬉しい」と言った。恥ずかしいことだが、そのときになって初めて妻がどれだけ寂しい想いをしていたのかを知った。  妻に寄り添った3年間、私たちはもっとも濃密で幸せな時間を過ごした。だが彼女の病が快復に向かうことはないと誰も言葉にせずともわかっていたし、彼女もおそらく自分の死期を悟っていた。私の前では気丈に振る舞う彼女の両目が、翌朝、真っ赤に腫れ上がっていることもしょっちゅうだった。  「治ったら、あのとき行けなかった新婚旅行にいくの」。私の差し入れたパンフレットの束を抱えて笑う彼女に、一緒になれて嬉しかった、と別れの言葉さえ口に出せなかった。それを口にした瞬間、魂を繋いでいる細い鎖が切れて、彼女が窓の外に広がる青空へ飛んでいってしまう気がしていた。  戻らない時間。めくられるカレンダー。  痛いほど白く、ごわついたシーツの上に眠る彼女を見下ろして、ただ手をこまねき、そのときを待っている。そんな毎日。  〝最近の火葬場は煙がでないらしいよ〟。規則的に上下する妻の薄い胸を眺めながら、誰かの言葉を思い出していた。思い出して、罪悪感と、ひとり残される孤独にふるえた。  それから1年半後、ほぼ医師の宣告どおりに妻はこの世を去った。  彼女が息を引き取る瞬間、私が妻にかけた言葉は「死ぬな」だった。  はたしてそれが彼女にとって最期の救いになったのか、いまでは知る由もない。 「ユキト君に出会う少し前に、手紙を見つけたんだ。妻が入院する前に家に残していったものらしいんだけど……」  トン、とグラスを置く音で記憶の底から引き戻される。はっとして顔を上げると、ユキトがフォークを置いて私を見ている。私がいつの間にか心惹かれた、大きく、透き通った一対の瞳で。 「ああごめん。こんな話、キミみたいに若い子には退屈だよな。歳をとると、どうも自分の話にばかり集中してしまって」  赤らむ頬をこする。手の平にあたる剃り残しと、乾燥してかさついた肌。学生に蔭で「ダンディ」とあだ名されていた頃の自分は今、どれくらい残っているだろう。ユキトの珠のような肌を眼前にするとなおさら羞恥が湧いた。 「早く食事を済ませよう。今日は勉強、休みにしようか。行きたいところがあれば連れて行くよ」  黙々と食事を再開するユキトの肩に、わずかな苛立ちが見える。 「どこも行かなくていい。俺、先生と勉強したいから来たんだし」 「……そう。でもトマトは食べなさい。人からご馳走になったものはできるだけ残しちゃダメだよ」 「へーい」  重なったまま突き刺され、口に押し込まれたトマトの汁がわずかな隙間から溢れて落ちる。  白い顎を伝う透明な筋に指を伸ばしかけて、ぐ、と膝の上に手を握った。  彼の学業をサポートすること。彼に規則的で危険のない生活を教えること。彼に社会的な生活を学ばせること。  それが、私が彼に提供した〝役割〟。  そのなかに私の欲はどれだけ紛れ込んでいるんだろう。  良識ある大人の仮面を被って、自分の本性を隠して。  口では「キミのため」と言いながら、私は彼の人生へ〝私〟を組み込もうとしている。 「へんへい、てぃっひゅ」  細い指で唇を拭う仕草にくらくらする。  頭のなかでユキトの嬌態と浅ましい欲望、そして妻の笑顔が、ぐるぐる互いの尾を追うように激しく渦巻いていた。

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