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第7話
「違うよ、あ、ユキト君はとても素敵な、ええと、素敵な人、だけど」
「ふぅん。へえ、そうかよ。あっそ!」
椅子を引くけたたましい音がリビングに響いた。テーブルに広げた本やら教科書やらをユキトは次々とカバンへ詰めていく。あっという間に、彼がそこにいたという痕跡は消えてなくなる。
そのとき、はじめて気がついた。
彼は私の部屋に、ひとつの私物も置いてはいなかったことを。
この部屋で、彼の存在がいかに不安定で、不確定なものだったのかということを。
目を離せばすぐに消えてしまう。
彼と触れ合っていた時間は、すべて彼自身が私へ与えてくれたものだったのだ。
「ユキト君」
「帰るわ」
肩にかけたカバンは、はち切れそうに膨らんでいる。迷いなく玄関へと歩いて行くユキトの背を追いかける。
「ユキト君、ごめん」
掴んだ右手は勢いよく振り払われた。
「別に謝ることなんかしてないと思うけど?」
凍った針のような鋭い声が突き刺さる。
恐怖で目頭が、じぃん、と疼く。
「待って」
彼が不快な思いをしたのなら謝らなくてはいけない。だがそれは同時に、私の気持ちを知られてしまうことを意味する。
私は言葉を呑み込んだ。
ただ一言。
〝キミに好意を持っていた〟
そう言えるのなら、どれだけ簡単なことだろう。
出会った頃なら口に出せたかもしれない。
気持ちを受け入れられることはなかっただろうが、私はユキトへ好意を持ちうる人間だと警告することができたはずだ。
だが一年という時間は、彼の私に対する信頼と、それを裏切る浅ましい欲望を育てるにはあまりに充分すぎた。
いまさら好きだと告げたところで、親切な大人の仮面を被ったまま、虎視眈々と彼のことを狙っていたと言うようなものだ。
言えない。そんなことは。
なぜならそれが、私の本心なのだから。
目を背け、見ないフリをしていた……私の本当の望みなのだから。
「待ってくれ」
――ああ。この期に及んで私は、まだユキトに嫌われたくないと思ってる。
彼を手放したくない。そばを離れたくない。
もう愛してくれとは言わない。ただ、あと少しだけキミの時間をくれ。
蛹が羽化し、美しい蝶へと変わる瞬間を、どうかこの目で。
「ユキト」
口には出せない想いを、名前に込めた。
彼は肩を震わせ、怒りで頬を紅潮させていた。
細い指がドアノブを握る。
「……先生が〝そういう目〟で見るんなら」
蹴りつけるように重い扉を押し開き、
「俺はもう、遠慮なんてしない」
そう言い残して、ユキトはひらりと姿を消した。
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