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第13話

 お互いなんとなく気まずい雰囲気を抱えたまま、無意味に机の周囲をふらふらと歩く。ようやく座る位置が落ち着いたところで、ユキトの父、河々谷氏は思い出したようにまたはっと立ち上がり、冷蔵庫から茶色い液体が入ったボトルと、氷で満杯のグラスを2つ運んできた。 「とりあえず、こんなものしかないんです。いま買いに行かせてますから」  どうやら麦茶らしい。今の今まで喉の渇きなどすっかり忘れていたが、見た目だけでしっかり冷えているとわかるそれに、身体は素直に喜んだ。 「いえ、ありがとうございます。いただきます」  ぎゅうぎゅうに詰まった氷の隙間をお茶がすり抜け、底へ溜まっていく。なみなみと注がれた麦茶を見ていると、口の中いっぱいに大麦の香ばしい香りが広がっていく気がする。ボトルの底に残ったままのパックから、もやもやとした麦の粉が立ち上っている。麦茶は父親の手による物なのかもしれない。  礼を言って一口飲むと、予想どおりの味にどこか懐かしさを覚えた。火照った身体を隅々まで冷やしてくれる。 「それで、ええと、有季斗のことをお話にいらっしゃったんですよね」  自分のぶんをグラスに注ぎながら、河々谷氏が言う。部屋の温度はかなり低いだろうに、ポロシャツの襟から覗く彼の鎖骨には汗が伝い落ちていた。 「どうですか、息子は。そちらにご迷惑をおかけしてなければいいんですが」  まるで家庭訪問だ。目の前で恐縮しきりの河々谷氏を見ると、私たちの極めて微妙なバランスで成り立っている関係を知っているのかいないのか、どうにも判断に困った。  もしユキトが父親に昨日の〝事件〟を詳しく話しているのなら、この反応は不自然だろう。私は今ごろ玄関先で門前払いをくらい、下手をすれば通報されかねないところだ。もちろん今晩の泊まりも、なし。  それはそれでホッとするような気もするが、なるたけユキトの落ち込む姿は見たくない。できれば今日一日だけでも、彼の好きなようにさせてやりたいと思っていたのだ。  ここが頑張りどころだろう。私は心の内で腕まくりして、真剣に言葉を選んだ。 「迷惑だなんてとんでもない。彼はとても真面目ですし、頑張っていると思います」 「……そうですか。お陰様で成績の方もだいぶ上がったと聞いています。本人もやる気を取り戻したようで、本当、先生にはなんとお礼を申し上げてよいか。ぜひ、お世話になった御礼をさせてください」  言葉だけは熱心に、しかし、どこか心ここにあらずという様子で河々谷氏は早口に捲し立てる。彼の緊張が空気を震わせ、私の胸に届く頃には心地よい周波となって、皮肉にもこちらのざわつく心を沈めてくれる。 「礼などけっこうです。私が勝手に持ちかけたことですし、むしろ、差し出がましい真似をしてしまったと反省しています。それに私自身、彼に教わることが多くて生活にハリが出ました」  ユキトに出会えてよかった。心からそう言える。もしあの夜、彼に声をかけない選択をしていたら思うと、肺の奥がしんと冷えるような、寒々しい気持ちになる。私は今ごろとっくに生き甲斐をなくし、無為に日々を過ごしていたことだろう。 「先生にそう言っていただけると……本当に、あの子も喜ぶと思います」  河々谷氏は自分の膝に視線を落としたまま、そう言ったきり口を閉ざした。  リビングに、冷気の吐き出される音だけが響く。ユキトの戻る気配はない。 「あの、」  沈黙が続くなか、今晩のことを切り出そうと私が口を開いた瞬間、それまでじっとりと肩をすくめていた河々谷氏が、やにわに顔を上げた。  驚いて口を閉じてしまう私の顔を数秒じっと見つめたあと、彼は口をもごもごと動かした。なにか言っているようだが、こちらの耳には届かない。 「あの……なにか」  聞き返す言葉に、彼はぎゅっと目を絞る。  ああ、こういうところが少しユキトに似ているなぁと呑気なことを考えていたとき、 「せっ……、せ、んせいは……有季斗とどういったご関係なんでしょうか……」  対峙する相手に、私は渾身の右ストレートを叩き込まれた。

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