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最終話

 昼日中の街をふたり並んで歩く。  空は快晴。行く先は雨か、嵐か。  視界は不明瞭で、足元はおぼつかない。  それでも引き返す道は閉ざしてしまった。もう、前を向いて進むしかない。 「とりあえず、泊まるのは今日だけ。お父さんと約束したんだから守るんだよ」 「はーい」  来たときと同じ、帰り道もユキトは私の少し先を歩く。これ以上、私が寄り道しないよう、その背中で見張るように。  「俺さぁ、高校卒業したら先生んち住もうかなぁ」  そう言ってチラリと横目で振り返る彼に、私はため息をついた。 「どうせ最初からそのつもりだったんだろう」 「あれ、バレた? ちゃんと家賃入れるからさ。ね? お願い」 「そのためにバイトを?」 「そ。あとは……まぁ、他にも理由あるけど、いまはいいや」  いまは、の続きはいつ聞けるかわからない。なにせ彼は肝心なことは何一つ教えてくれないのだ。それでもまだ時間はある。彼の気が変わらなければそのうち教えてくれるだろう。  それまで自由を得た仔猫を果たして繋ぎ止められるかどうか。それは人生経験だけは豊富な私の腕次第だと、柄にもなく張り切っている。 「そうだ、先生。俺が先生んち住んだらエロいことしてもいいよ」 「ぶっ」 「あ、なんだよその顔! 笑うなって!」 「あいたっ」  思わず吹き出した私に鋭いパンチが飛んでくる。軽い拳でも筋肉の衰えはじめた身体にはけっこうな痛さだ。これでは甘噛み程度でも致命傷になりかねない。  ――時間を見つけてジムにでも通うか。  ユキトに負けない体力をつけないとなぁ、とぼんやり考えて、一瞬邪な考えが浮かんだ自分はまだまだ若い部類に入るだろうか。 「あのさぁ。本当は俺、まだ怒ってんだけど。先生が俺に触ったこと」  じっと見つめる目に心を読まれた気がしてドキリとした。 「悪かった。でもわざとじゃ……」 「違うってば。一年も一緒にいたのに、なんで今さらってこと。俺、ちょっと諦めてたから」  殴られた腕を擦る私の手に、そっと細い指先が触る。上目遣いに見上げるユキトの吐息が近づいて、思わず大きく仰け反る。  こんな人通りの多い住宅街で、誰に見られるかわからない背徳感に、今日一日でずぶんくたびれた心臓がドクドクと熱を上げ始める。 「はじめて声かけられたとき、そういうことだって思った。年上に興味はなかったけど……先生、優しそうだったし、最初が先生みたいな人なら怖くないかなって。だからついてったのに全然なんもしないじゃん? 先生んち行くたびに今日はするかなって、期待してたのがバカみたいになって。だから、途中から諦めた」  太陽が肌を焦がす。遠くで耳鳴りがするのは、夏の暑さにやられたせいだろうか。 「俺が子供だから相手にしてくんないんだって思ってた。もうちょっと大人になったら、先生も意識してくれるかなって頑張ったんだけど……なんだよ。最初から俺のことエロい目で見てんなら我慢なんかするんじゃなかった! あーあ、一年ムダにした!」  二度目のパンチが飛んでくる。 「いや、無駄じゃないから……」  身構えていたおかげで、なんとか避けた。避けられたことが不服だったのか、今度は手のひらで肩をばしばしと叩かれた。 「いたた。まったく色気もなにもないな、この子は」  伝家の宝刀、しかし私にとっても諸刃の剣をちらつかせれば、途端に仔猫は大人しくなる。小さな口を不機嫌そうに真一文字に結んで、そそくさと私から離れていく。  しばらくこの手で彼を制御できることはわかったが、それもあと一年ほどで通用しなくなるだろう。  仔猫はちょっと目を離した隙に大きくなる。彼が立派に独り立ちする頃には、今度は私がその手を借りることもあるだろう。  それまでまだもう少し。私の持つすべてが、彼のこれからの人生の糧となるように。 「そのうち〝ヤラせてくれ〟って、土下座で頼ませてやる」 「そうだなぁ。楽しみにしてるよ」  内心はドキドキだ。初めて恋を知った時のような、甘く、淫靡な期待に胸が震える。  でも、けっしてそれを顔には出さない。何気ない顔で、最期まで彼の前を歩いていくと決めた。  私が彼に遺すものは、ただひとつ。  蕩けるほど、甘い記憶だ。

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