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「仔猫の寝床」 2話

夜、書斎に籠もっていると、控えめなノックのあとに背後でドアが開いた。 「先生。そろそろ寝るけど」  振り返れば、だぼだぼのジャージを着て裾をたくし上げたユキトが立っている。彼の兄からもらったお下がりだというジャージは細身で小柄なユキトにはいささか大きすぎるようでいつも裾を引き摺るようにして歩いているが、本人はゆったりとしたところがお気に入りらしい。ウチへ泊まりに来るときは、いつもそれをパジャマ代わりにしている。 「もうこんな時間か」  見上げた時計の針は0時を少し過ぎたところ。  風呂上がり、目の覚めたユキトはリビングで試験勉強をすると言った。普段は私も付き合うところだが、あいにく来月は臨時講師として講義を受け持つことになっている。その準備に忙しくて今週はユキトの勉強を満足に見てやれていない。 「ずいぶん遅くまで頑張ってたなぁ。テストはいつだっけ」 「再来週。成績ぜったい落としたくないし、早めにやんないと」 「それが約束だからね」  ちょっぴり念を押すように言えば、ユキトはむっと唇を結びはするものの、文句も言わずに黙っている。  ――真面目に学校に通って充分進学できる成績を維持できれば、週末は『ときどき』泊まりにいってもいい。  ユキトの両親と交わした約束だ。  バイトに勉強にと一生懸命な彼の姿を見て、心の広いユキトの父親が許可してくれた。母親の反応はどうだったと訊くと、ユキト曰くあまり良い顔をしなかったそうだ。当然だろう。私に息子がいて、その息子が50を過ぎた男の家に泊まりたいなどと言い出したら……私には息子どころか子供ひとりいないが、想像しただけでも胸のあたりがざわつくような気がしてくる。  ユキトを信じるように私を信じて欲しい。彼の父親を口説き落として、この関係を続けると決めた。いま思えばずいぶんと偉そうなことを言ったものだが、私の存在を認めてもらえる方法なんて結局のところそれ以外ない。  同性愛者であるユキトと、その彼を好きだと言った私。自分よりも年上の私を河々谷氏が問答無用で家から叩き出さなかったのは、おそらく自分が今までユキトの心に向き合えなかったことへの罪滅ぼしでもあるのだろう。  その想いに少しだけ便乗したことは否定しない。  が、この機を逃してなるものかと必死にしがみつく自分がいる。  良識も常識も、これまで築き上げてきた経歴すべてを打ち捨ててでも、私はただユキトが欲しい。 「……お父さんに感謝だなぁ」 「普通許さないよな。俺の親父ってちょっと変なのかも」  爪先に視線を落としたユキトが苦笑混じりに呟いた。彼もまた父親に対する申し訳なさと罪悪感、そして感謝の入り交じった複雑な気持ちを抱えているのだろう。奔放に見えて実のところ、ユキトは人一倍相手を思いやれる優しい子だ。両親が傷ついていることはその肌で感じているに違いない。 「ああ、ごめん。もう寝るところだったね。ちょっとキッチンでコーヒーだけ淹れていいかな」 「淹れてこようか?」 「インスタントだし、自分で作るよ。ありがとう」  狭い廊下に出ると、途端に底冷えするような冷気が足元から這い上がってくる。さすがの若いユキトも捲し上げた裾を伸ばしている。今年の冬は寒くなりそうだ。 「ずいぶん冷えるな。向こうの部屋は寒いだろう、掛け布団もないし」 「ん~、まだもうちょっとイケる、と思う」  ユキトの寝場所はリビングの隅だ。自宅から運んできたシュラフを広げてそこを自分の寝床にしてしまったのだが、二度目に泊まった日に、敷き布団とタオルケットを買ってあげた。妻が亡くなってすぐ客用の布団をすべて処分してしまったための仕方なしの対処だったが、ユキトはそれで充分だと喜んでくれた。  しかし夏は乗り切ったものの、秋が終われば本格的な冬がやってくる。毛布や布団は明日にでも買えばいいとして、問題は今夜だ。できればテスト前の彼に風邪を引かせたくないし、彼の苦しむ姿を見たくない。  「ベッドで寝るか、一緒に」  何気ない提案だった。いや、提案でもなんでもない、単にその選択肢しか今の私の頭にはなかった。  寝室のベッドはひとりで使うには大きすぎるクイーンサイズで、ユキトひとり隣に寝たところで何の支障もない。哀しいかな、欲情を覚える相手と布団を共にしても、途端に理性をなくすほど性欲に支配されている年齢でもない。 「あ、いや。何もしないしキミさえよければ、なんだけど。もちろん」  嫌われているわけでもなし、まさか拒否されることはないだろうと思いながらユキトの顔を見ると。 「……ユキト君?」  かち合った瞳は薄氷が張ったように一瞬の温度を失っていて、 「ベッドには寝たくない」  ころん、と冷えた声が暗い廊下に墜ちた。

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