大学生・久原海(ひさはらかい)は「目立たない」を具現化したような青年だ。 　身長、体重共に年相応の平均で、服装もキャンパスに数十人は居るであろうラフなもので、成績は上から数えるのが早いか下から数えるのが早いか賭けでも出来そうなほどの中間層。 　唯一の特徴としての、まばらに目元を隠すような長い前髪は、その一度も染めたことのない深い黒のせいか、もとより大人しい海の雰囲気を少々鬱屈としたものに見せていた。 　しかし、当人はそのつもりがなく、むしろ度々視界にちらつく一房を邪魔だなぁと思ったりしていて、それでも散髪に行くのは面倒だという惰性が勝ってこの有様なのだ。母からは「せっかく父さんに似て美人なんだから、短くしちゃえばいいのに」と、わけのわからない理屈で、床屋の予約を取られたりするが、海はそのたびに勘弁してほしいと内心でため息をつくのだった。 　今日だって、行きたくもない、行ったこともない、名も知らないヘアサロンに、母の差し金でいつの間にか行くことになっていた。 　轟々と唸るような音がして、窓の外が黒く染まる。向いの窓ガラスに映る、色彩のハッキリしない自らの像を覗き込んで、いや美人ではないだろと記憶の中の母に小さく反論してみる。してみたところで、まぁキャンセルするのももったいないしと、せっかくの休みに大学行きのいつもの路線に乗り込んだ自分の、親思いなところに我ながら可愛いなと思ったりして。なんだかんだ母に弱いのが息子だ。曰く、反抗期がなかったらしいし。 　イヤホンから流れる配信のBGMに、未だ鳴り続ける低い音。少し長いトンネルに入ったのか、耳が気圧で詰まるような感覚がしてイヤホンを右だけ外してみる。 　休みの日とはいえ、街の中心部に向かう電車はそれなりに人が乗っている。迷惑にならない程度のささやき声がいくつか混ざり合って、騒がしさのない雑音として箱の中を満たしていた。心地よいとは言えないが、不快とも思わない。そんな日常の中に突然、非日常が流れ込んでくるような、そんな感覚だった。 　声がしたのだ。左耳から聞こえた声と、重なるようなそんな声。 「うわぁ、えっオレの配信だ……まじかファン？　いやいや奇跡過ぎだろ」 　僕のすぐ右。僕の手の中にあるスマートフォンの画面をまじまじと、そして誰に聞かせるでもないようにぶつぶつと、その青い頭頂部は左側の声にダブリングするような、似ているとだけ表現するには合いすぎている声を右側から発していた。 　状況が呑み込めず、声も出ない。ただ目を瞬かせるくらいしかできず棒立つ僕をよそに、その青い不審者はまだぶつぶつと何かを呟き続けている。ぼーっと考え事をしていたのが良くなかったのだろうか、僕はイヤホンを外すまで彼に一切気が付いていなかったし、彼もまた画面をのぞき込むことに集中しているのか、僕がイヤホンを外してつむじを眺めていることに気が付いていないようだった。 「しかもこれ昨日のアーカイブじゃん。オレ何話したっけ……？　恥ずかしいこと言ってないよな？　多分、近所の猫がやっと撫でるのを許してくれたとかそんな感じの他愛もない話をしてたよな？　うわ、好みの人の話とかしてたらどうしよ。してたっけ……いやしてないはず……最近ご無沙汰だし大丈夫大丈夫……うわ、はっず。バレたらどうすっかな……」 　つらつらと、流れるような独り言。高すぎず低すぎずな甘い声。落ち着いていて、どこか楽しそうで、マイクを通さなくても分かる。というか自ら名乗っているようなものだ、こんなの。 「KU-TO……さん？」 「えっ？」 　ぱっと、画面を見ていたつむじがこちらへ振り返る。ばちっと音が鳴ったかと思うほどまっすぐに目が合った。青と紫。アジサイのようなオッドアイ。瞬きにさえ音がついていそうな長いまつ毛。さらりとゆれるのは、チャンネルのアイコンと同じ色のウルフヘア。小学生の女の子が付けていそうなファンシーな髪留めを、砂糖菓子みたいに散りばめたそのグラデーションから覗くピアス、ピアス、ピアス。と、チョーカー。あとなんか角。 　……露店で見る派手なわたあめみたいだ。 「え、っと……そう、デス」 　少し気まずそうに、目がそらされて宙を泳ぐ。そしてまた目が合って、えへへと軽やかに微笑まれた。その仕草さえ、童話の世界の住人のようで、今ここが一体どこなのか分からなくなりそうだった。 「……ファン、です」 　呆気にとられるとはこのことかと、良く分からない納得をしながら、やっと絞り出した声は、一週回って達観したような平坦さだった。