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第35話
ひとりパニックに陥る犬飼の肩に、瀬戸が手を置いた。
「それじゃあ今夜」
顔を近づけるようにささやかれる。ようやく瀬戸の言葉の意味が頭に入ってきたのは、自分のデスクに戻る彼の背中を眺めているときだ。
瀬戸が俺を好き……? まさか……。
じわりと頬に熱が上る。犬飼はカップを持っているのと反対の手で口を覆った。そうしていないと、何かを叫び出しそうだった。やがて大きな衝撃の波が落ち着いたとたん、すっと冷静な自分が戻ってきた。
「仕事をしなきゃ」
犬飼は誰ともなしに呟くと、自分のデスクへと戻った。
もしも、そのときの犬飼を誰かが見ていたら、普段と違うようすに気づいていたかもしれない。表情をなくした犬飼を見て、大丈夫ですか、と訊ねたかもしれない。しかし、あいにくその場には犬飼のほかに誰もいなかった。
入れたばかりのコーヒーは、すっかりと冷めてしまっていた。
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