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第39話

 あ、閃輝暗点ってわかりますかと聞かれ、犬飼が素直にわからないと首を振ると、瀬戸は少し考えるそぶりを見せてから、神経系の障害で、偏頭痛の前兆と言われていますね、と説明をしてくれた。 「あれが出ると、視界が光に邪魔をされて見えづらくなるんですが、ある日、駅の階段で突然なったんです。とっさのことで階段から足を踏み外してしまって、落ちそうになった俺を誰かが後ろから支えてくれました。顔はぼんやりとしてよく見えなかったけど、俺はそれが毎朝電車で見かける男だと気がつきました。男は俺をベンチに連れて行くと、わざわざ自販機で水を買ってきてくれた。急いでいたようで、俺が大丈夫だとわかると、そのまま名乗らずに立ち去ってしまいましたが」  話の流れからその見知らぬ男というのが自分だとわかっても、犬飼は瀬戸の話を思い出せなかった。言われてみれば、なんとなくそんなことがあったような気もするが、はっきりとは覚えていない。  瀬戸はそんな犬飼の反応もある程度予想していたのか、構わず話を続けた。 「でも、あるときから急に男の姿を見なくなりました。おそらく乗る時間が変わったのか、何か事情が変わったんでしょう」  それは、いま住んでいる場所に引っ越しをしたことで、乗る線が変わったからだ。 「ある日、あんたが座っていた席に座ってみました。そしたらさっきの区間、ほんの一瞬だけ視界が開ける場所があって、そこから富士山が見えた。そのときになって、ずっとおかしなやつだと思いながらも、密かにあんたに会うのを楽しみにしていたことに気づきました。まあ、そのときにはもう遅かったわけですが」  まるでそのときのことを思い出すかのように、瀬戸が懐かしそうな表情を浮かべる。  思ってもみなかった瀬戸の話に、犬飼は相槌を打つことさえ忘れ、聞き入ってしまう。 「再びあんたを見たのはそれから数年後のことです。ときどき症状は出るものの、それ意外は大した問題もなく、俺は相変わらず忙しい毎日を送っていました。正直、デザインの楽しみなんてとっくに忘れて、ただルーティーンをこなすように、淡々とした日々を送っていました。そんなときです、あんたに再会したのは。新宿駅で、あんたは駅貼りのポスターに立ち会っていました。笠井さんと一緒で、ああ、笠井さんは前から知っていたので、俺と同じ仕事をしているんだと思いました。――すぐにわかりましたよ、あんたがあのときの男だと。楽しそうに仕事をするあんたを見て、自分がなくしたものを、あんたは持っているように見えた。電車で見かけたときと、あんたは何も変わっていないように思えた。だから笠井さんに誘われたとき、いまの会社に入ったんです。あんたと一緒に働いてみたかったから」  ……覚えている。あれは犬飼が笠井の下について、初めて大きな仕事に関わらせてもらったときのことだ。駅の構内に貼られた広告がうれしくて、誇らしくてたまらなかった。  瀬戸の言葉がまっすぐに犬飼の心に入ってくる。それは、これまで固く閉じていた犬飼の心にまで染み込んだ。胸の奥で何かがコトリと音をたてる。

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