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4.栄沢理衛34歳の場合

時は少し遡る。 栄沢翠龍37歳がベッドの上で目を覚ました頃、別室ではスーツ姿の栄沢理衛34歳が壁に寄りかかって座り込み、立てた膝の皿を神経質に指で叩いていた。 先ほど、最後の一本に火を点けてしまった為に、今の理衛を慰める煙草の煙はなかった。はあーーっと深いため息をついて、左手を口元に添え、そのまま短く整えられた顎髭を撫でた。 さっきからまるで進捗のない時間を過ごしている。先刻は失敗したな、と理衛は部屋の奥で縮こまる人影へチラと目を遣った。 目線を感じた人物はますます小さく縮こまって、真っ白な壁に同化しようとするかのように蹲って顔を下げた。 その様子に理衛は勘弁してくれと天を仰いだ。 見慣れぬこの白い部屋で目を覚ました時、こちらを覗き込んで不安げな顔をしていたのは今よりもずっと若い頃の姿をした兄の翠龍だった。 「夢か?」と訝しげに問えば、若い兄者は今は19才で、大学に通っていると言う。反対に、弟によく似た俺について遠慮がちに何者なのかを問うてくる。 「衛士おじさん?」と聞かれた時には少々苛立ちを覚えたが、どうにか互いの身の上を提示し合い、未来と過去の人物がこの部屋にて奇跡の邂逅を果たしているのだという結論に至った。世にも奇妙な話だ。黒いサングラスでもかけていたほうが良かったかもしれない。 このただただ白い部屋には鍵がかかっており、外部へは行けず、出る方法がわからない。 ーーいや、分かる。 理衛は無いと頭では分かっていながらも、再度胸ポケットに手を伸ばす。平らなポケットに舌打ちした。 こんなことになるなら無くなる前にポケットを叩いてタバコを増やしておけば良かった。頭の中で流れた魔法のポケットでビスケットほしいな〜的な童謡を打ち消し、理衛は観念したように翠龍へ声をかけた。 「…取って食ったりしませんので、こちらに来てくださいませんか?」 理衛の言葉に、何もない床をじっと見つめていたとっぽい大学生の翠龍くんは顔をあげ、しばししてからゆっくりと腰を上げた。 ■ 互いに信じられないと囁きながら、それでも相手の口から当人としか思えぬあんなこと(初めて行った風俗店で指名した女子の名前)や、こんなこと(お気に入りのエロ本の隠し場所とキャッチコピー)を聞けば、やはり目の前にいるのは、どれだけ老けたといえど実の弟なのだと、翠龍は受け入れるしかなかった。 確証ネタがシモばかりなのは許して欲しい。センシティブだからこそ信用たり得る証明になるのだ。 現在34になるという理衛は、呆れるほど格好の良い大人だった。 ブラックスーツを見事に着こなし(何色といえばいいか分からないので黒としたが、実際にはチャコールグレイの上品な色合いだった)、汚れも皺もない白いワイシャツに、複雑な柄の入った濃紺のタイを締め、足元はダブルモンクのピカピカの靴を履きこなしていた。 最初はこちらを警戒していた理衛だったが、何かの折よりパッと笑顔を向けて態度が軟化したので、翠龍は心底ホッとした。 そのまま他愛のない会話をしながら、「兄者はそのままで」と理衛は部屋の中を検分して回った。天井を見つめたり、トイレに繋がるドアを開けたり、チェストの中身を確認したり、一通り見回った後に、やはり出口のドアが開かないことを確認して理衛は隣に戻ってきた。 「ところで兄者、大学は楽しいですか?」 一瞬、変な間があってそう尋ねられる。 翠龍はしばし考えてから「楽しい」と答えた。妙な緊張がある。互いに。なぜ? 翠龍はこういう会話の間や緊張感が苦手だった。コミュ障なのだ。普段の理衛にならこんな居心地の悪さは抱かない。やはり同じ理衛といえど、知らない理衛には緊張してしまう。 何か言わなくては、とコミュ障が抱きがちな焦りから翠龍青年は理衛へ「あなたはどうですか」と他人行儀な質問を投げ返す。ど下手くそなボールの投擲だったが、理衛は黙って笑みを深くする。 「知りたいですか? ……兄者の未来のこと」 そう言って底知れぬ笑顔を見せる弟に、背筋がゾワりと冷える。 なんか、聞かない方がいいんじゃないかという予感がする。だが、断る前に理衛は口を開いた。 「兄者、俺と付き合ってるんですよ」 「へっ」 素っ頓狂な声が口からまろび出る。エ?いま、なんて?? 「付き合っているというか、『結婚』って言ったらいいんでしょうかね、兄者の時代風に言うと。ああ、今の俺の時代だともう結婚なんて言わないんですよ。男女という決まりもありません、時代が変わったので。天皇も変わりましたし、元号も変わります。大仏も建立されたし、首都は京都に移りました」 「ええっ!」驚きすぎて翠龍は細いつり目をまん丸にして、小さな瞳をもっと小さくした。 「っふっふ、驚きますよね。ニューノーマルってやつです。当時は皆驚きましたが今やそれが普通なんです。それで兄者は組で若い者たちに剣道を教えたり、塾に通わせたり、たまに料理などしながら立派に働いていますよ。栄沢組は父の方針転換で中華料理屋の経営なんかも始めてますし、グローバル化社会に適応すべく日夜成長を続けています」 「え、えぇ…」 理衛の言うことが半分も理解できなくて翠龍は困惑の声を漏らす。横文字が多くて頭に入ってこない。中華料理屋って、あの父が? 「すみません、一気にお伝えしたので混乱したでしょう。さあ、どうぞこちらに」 翠龍の困惑しきりの様子を憐れんだ理衛は優しく両腕を開く。「どうぞ、いつものように」そう言って理衛は有無を言わさず翠龍の腕を掴んで胸の中へと抱き留める。 「???」を空中に幾つも製造しながら翠龍はゆっくりと抱きしめられる。理衛からは大人の香水の匂いがした。 「…こうすると落ち着きますよ。これは今も昔も変わりませんよね」 頭の上でクスリと微笑まれて、つむじに理衛の鼻が降ってくる。「ヴォ」っと翠龍の口から怯んだ声が出たが構わず理衛はスンと一息匂いを嗅いで、翠龍の顔を上に向かせた。 そのままうっとりとした眼差しを向けられて翠龍は身の危険に体を捩ったが、ガッチリと抱き締められて敵わない。 そのままウチュっと口付けられて、翠龍は身体中に鳥肌を立てた。 あまりのことに身を固くしていると、理衛の手が背から腰へと伝いおりて、肌を確かめるように柔らかくまさぐった。 口内にはぬるりとした分厚い舌が入り込んで、翠龍の薄い舌とすり合わされる。 反射的に閉じようとした脚を理衛の膝が阻んで、逆に割り開く。そのまま腿で股の間をぐりと刺激されて、翠龍は堪らず理衛の胸を強く打ってなんとか離れた。 理衛は「おっと」と小さく漏らして、翠龍がバランスを崩す前にその背を支えた。 「なっ…!な……!」 非難の台詞も出てこない程に驚いている、顔を真っ赤にした翠龍に、理衛は内心したり顔で笑った。 「すみません急に、兄者の都合も考えず…でも」 こういうの好きでしょ、と理衛が困ったように笑う。 その顔を見た翠龍は驚きや恥じらいを一瞬忘れて理衛の顔を思いっきり打った。 その顔は理衛が他の弟たちに意地悪を言うときの顔と全く同じだったので。 ■ 切れた内頬にそっと舌を這わせて、理衛は顔を顰めた。先ほど兄者に殴られたせいで、口内が切れたらしい。頬はまだ腫れていないが、もしかしたら腫れるかもしれん。 もう少しうまく行くと思ったんだが。 「どすけべ」くらいの反抗はかわいいものだったが、頬を強か殴られて浴びせられた言葉はほとんど罵倒だった。 流石の理衛も愛しい兄にそこまで言われると傷ついた。何もそこまでなくとも…。 理衛はようやく傍へ寄ってきた翠龍を見ながら次の手を考える。 なんせ、ここは『セックスしないと出られない部屋』だ。十中八九。オタク共がみんな好きなやつ。 その事実を告げた際に純情ウブな兄者が耐え切らず舌を噛み切ってしまわないよう、緩衝材として先手を打ってあの大ボラを吹いたわけだが、こんなに臍を曲げられるとは思わなかった。 混乱のまま流されてくれれば良かったものを。どこで正気に戻る暇を与えてしまったのか。 十二分に距離を置きながら、翠龍は理衛を鋭い視線で見遣る。絶対に手の届く範囲には寄らないつもりなのだろう。 「兄者、先程の件について補足の説明をさせてください」 「……許す」 「ありがとうございます」 許可が降り、理衛はまずは先程の行為について丁寧に謝罪した。 そして話した内容については事実であると、いけしゃあしゃあと抜かした。「信じられないかも知れませんが」と何度も末尾につけながら、それでも未来では俺と兄者が同棲していること、そういう行為もする間柄になったこと、そもそも24の時に自分が文字通り決死の告白をし、叶わないなら死ぬと騒いで、泣き落としの末に兄者と結ばれたのだと、今度は本当のことを説明した。 流石にそこまでされては寝覚めが悪いだろうと、受け入れてしまった未来の自分に翠龍は同情した。 「なるほど…。信じるかどうかは別としてひとまず分かった」 翠龍はこれ以上説明を受け続けるのが苦痛だったのでそう言って切り上げた。 「でも、だからと言ってお前が俺に手を出したり、不埒なことをするのは許可していない」とも釘を刺す。 理衛はホッとした顔で眉を下げたが、難しい顔になって黙り込む。 「なんだ、問題あるか」 翠龍は疲れからか、ベッドに乗り上げて足を投げ出した。理衛はその様子をチラリと盗み見て、「そうですね」と口を開く。 「問題があります。これは、この部屋から脱出する際に関わってくる大事なことです」 理衛の言葉に、翠龍は意味がわからないと短い眉を眉間に寄せた。 「それはこの部屋がーー」 理衛が続けようとしたところでボソボソっとくぐもった音が部屋に大きく響く。 翠龍は反射的に身構え、目だけで音の発生源を探る。天井のスピーカーに気づく。そしてスピーカーからは無機質な音声が流れ始める。 『おはようございます。ここはセックスしないと出られない部屋ですーー』

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