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5.栄沢翠龍19才の場合

セックスの定義まで懇切丁寧に教えてくれた音声にサンキューと理衛は言いたいくらいだった。自分の口から説明するより、よっぽど兄者には効いただろう。 実際、放送を聴き終えた翠龍は、口元を押さえたまま顔を青くして、ぽすんとベッドに身を投げた。思考の放棄だ。 理衛はこれは勝ち戦だな、と心の中で勝鬨を上げた。ぶんぶんと自国の旗を振り、兄者の領土にそれをぶっ刺して笑顔になる。 「どうしましょうね」 兄者の口からは答えなんか返ってこないと知りつつ、理衛はおもむろにベッドへ乗り上げて、横になる。片肘を立てて、横向きに寝そべって呆然とした翠龍の顔を余裕の表情で眺め見る。 「今は良いですが、そのうち腹も減るでしょうし、いつまでもここにいる訳にはいかないでしょう。助けが来るのを待つのも良いですが、それもいつになるやら。おまけに俺は未来、兄者は過去の人物です。そんな二人が揃って閉じ込められる部屋なんて、現実に存在するんでしょうかね。したとしても一体、どこの誰が辿り着けるんでしょうか」 つい意地悪な言い方になってしまうが、これは楽しい時の理衛の癖だ。 呆然としていた翠龍の顔が不安で曇っていくのをつぶさに観察しながら、理衛は兄の口から同意を取り付けられる契機を今か今かと待ち構える。 「大丈夫です。俺は兄者を傷つけることはしませんし、事が済めば兄者は全部忘れてしまったらいいんです」 嘘だ。絶ッッ対に忘れられない経験にしてやると理衛は心に誓っている。 俺のことを忘れる事ができず夜な夜な火照った体を持て余してくれれば良い。 切なさに耐え切れなくなって俺に縋り付けば最高。 それがこの俺じゃなくても、どの世界の俺も諸手を挙げて悦びに震えるだろう。 感謝してくれどこぞかの俺よ。純真無垢な兄者を快楽の坩堝に叩き落としてくれようぞ。 「俺は幸い、兄者にとって未来の人間ですから。誰もこのことは知る由もないでしょう。兄者が忘れてしまえば、それで終いです」 甘い誘惑で、獲物を陥落させる瞬間が栄沢理衛は一等好きだった。 今や兄者一筋と決めているので、他に手を出すなんて、トンとご無沙汰だった。 でも今は、合法的に口説き落として、肉欲の虜にできる!それも大好きな兄者を再び!オーハレルヤ、明日は神に感謝し、祈りを捧げます。 だがその前にサバトだ。今夜はご馳走。 理衛の邪悪な考えなど露知らず、翠龍は悪魔の提案をぼうっとする頭で聞いていた。 理衛とセックスする。誰もそのことを知らない。 自分が口を噤めばそれはなかったことになる。誰にも言えない秘密が一つや二つ増えることに、そんなに躍起にならずとも良いのでは? そんなの今更じゃないかと翠龍は瞬きして、理衛の顔を見る。 「お前とこういうことをするのは良くないと思う。でも、本当にこれしか手がないなら、」 やはり一瞬迷って、目線が彷徨う。理衛は黙って続きの句が紡がれるのを待っている。 「……分かった」 目を見て言うことはできなかった。 翠龍は途方もない気力を使い、ドッと疲労を感じたが労うように伸びた理衛の手のひらに頭を撫でられて、なるようになっちまえと目を伏せた。 ■ 「パンツどうしたんです?」 「あ…、いや待っ、なんで?」 たくさん優しくされたのちに理衛の手がズボンの中に侵入した際の一言である。寝そべったままの翠龍と、身を起こして尋ねる理衛の間にささやかな沈黙が訪れる。 下着を履いていないという事実に翠龍は瞠目する。朝ちゃんと履いた。大学のトイレでもパンツの存在は確認した。ではどこで?そこで翠龍はあちゃと顔を顰めた。 「……部室で履き忘れたか」 「なんですって?」 なんで部室でパンツを脱いだのか。理衛は訝しんで翠龍の顔を窺う。すると翠龍はわかりやすく更に「しまった」という顔をする。 んん?っと理衛は頭を傾げた。何かあると踏んで、翠龍のダサいチェックのシャツを捲ってへそに顔を埋めてそこを舐める。なぜセンスのない大学生男子はチェックのシャツばかり着るのか、理衛には理解できなかった。 「ひっア!」 ビクンと体を硬らせて、翠龍は短く悲鳴を上げた。実に理想的な反応だった。 「兄者?どうして部室でパンツ脱いだんです?」 チロチロと舌を臍から下へ横這いにとゆっくり這わせながら、理衛が尋ねる。 翠龍は都合が悪いのだろう、無言で悶えている。 その態度に理衛はフンとほくそ笑んだ。兄者の性感帯は熟知している。 その一つはこの下腹部だった。下腹部が弱いとかエロいだろうという話は今度するにして、ここを攻めながらちんぽでも握って問い詰めれば簡単に兄者が根をあげるであろうことは想像に容易い。 まさかここが自分の性感帯だなんて知らない兄者は、嬲られ…丹念に可愛がってもらってどんな反応をするだろうか。考えただけで股の間のリトル理衛がビッショビショに泣いてはしゃいで大喜びだ。どんな台詞を吐いてくれるか待ち切れない。 そっと手を掛け、腹を押そうと力を込めようとしたその時、兄者の口から鋭い静止の声がかかる。 「ヒ!あ、やめて先輩っ!押されたらまた出っ……!」 「……」 「……」 「……」 「……っははあ」 乾いた笑いが辛抱たまらず口の端から転びでる。やめてせんぱい、おされたらまたで……ってなに? 思いもよらぬ兄者の大暴投。 予想だにせぬ爆弾発言に理衛キャッチャー、思わず受け損ねる。 零れた球は転がって動きを止めると、カッと眩い閃光を放ってあたり一面を真っ白に塗り潰した。 核弾頭は炸裂し、理衛の世界は滅んだ。ジ・エンド。 ■ 世界は滅亡した。 なので、理衛はベッドからフラフラと降りて、部屋の中を意味もなく彷徨うウォーキングデッドになった。 先程の兄者の台詞が読み解けない。難しくないはずなのに、ちょっとよく分からない。ゾンビだから仕方ないか。脳死してるもんな、と理衛は自分を慰めた。 煙草が吸いたい。切実に。一本くらいどっかにないだろうか。夢のチェストの引き出しには胸躍る宝物が詰まっていたが、ニコチンは品切れのようだった。 胡乱げな瞳と表情の抜け落ちた顔で部屋を彷徨う偉丈夫というのははっきり言って不気味以外の何者でもなかった。 斜めになりながらフラついていたと思えば、肩を壁に擦りながらベッド脇の小さなチェストの前に膝をついて、引き出しの中身を一つ一つ外へ出す様は異様すぎた。ゾッとして翠龍は静かに目を背けた。 どうしよう。つい口走ってしまった取り返しのつかない言葉に翠龍は渋面を作る。 このまま理衛がおかしくなっていてくれば、蒸し返されることもないかもしれないが、それではこの部屋に永遠に閉じ込められたままだ。このおかしくなってしまった理衛とずっと。 「りりり理衛っ」 それだけは勘弁と翠龍は果敢にも歩く死体へと声を掛けた。 「先程の件について補足の説明をさせてほしい」 「……ウウー」 「ヨシ」 許可が降りたと解釈して、そそくさと翠龍は話を進める。翠龍はまずは先程の行為については誤解があると言い訳をした。 「これは違うんだ理衛…その、まず先輩というのは女性で……」 「ウウ」 オンナがいるのかこの兄者は。うちの兄者は20になるまで彼女ナシ・童貞を立派に貫いたぞ。 「ああう……いや、そうじゃないな。その、俺は腹の下の方を押されるとおかしくなってしまうから、そう……」 「オアア…」 それ、俺が教えてやりたかったやつ〜〜!ドヤ顔で、したり顔で、キメ顔で教えてやりたかったやつです、兄者…。 理衛は悔しさを噛み締めて唸った。 「随分すけべに大学生活エンジョイしてンじゃないですか…」 「ぐう」 今度は翠龍が歯を食いしばった。 「さっき、俺が兄者にしたようなこと、もう兄者は他の奴に」そこまで言って理衛はオエエとえずいた。 自分の口から人を殺す呪文を放ってしまうところだった。 何度も吐き気を催して言葉にならないので、手で「そういうことでしょ?」とジェスチャーを送る。 「ああ理衛…」 裏切りの兄は堪能な弁舌を失った弟の姿に大きな後悔を抱いたようで、ベッドから降りて大きすぎる背をゆっくりと硬い手のひらで撫でる。 10以上も年下とはいえ、兄の優しい施しに心が癒されていった根っからの弟ムーブ者の理衛は拗ねた口元で翠龍に甘えながら、チクリと刺す。 「兄者だってすけべなのに、どうして俺がすけべなことするのはダメなんですか」 これが特段効いたらしく、あまりの殺傷力に兄者は胸を押さえてがっくりと肩を落とした。起死回生の一撃で見事に立場を逆転させた理衛は指の先まで生命力が戻ってくるのを感じていた。 「その……俺は、その……お前を失望させてしまうのが恐ろしくて…こんなことを……」 罪悪感でいっぱいになった翠龍は観念したように口を開いた。 「あの……その…俺は大学でいわゆる……サークルに入ったんだ」 「サークルぅ?」 突如、素っ頓狂なことを口にし出した翠龍に理衛は片眉を引き上げる。「そう、サークルだ」と小さく繰り返して翠龍は咳を払う。 「そのサークルがだな、あの……いわゆる……あの……や、ヤリサーでな」 目を伏せながらボッと顔を赤くした翠龍。 理衛はというと、あのお堅い翠龍の口から信じられないワードが飛び出してきたことに面食らって言葉が出なかった。 や、ヤリサー。と口の中で反復してどうにかこうにかこの凡そ兄の口に似合わない単語を飲み込もうとするが、どうにも溜飲できない。 「ヤリサーだとぉ!」 最終的には頭を抱えて絶叫するに至る。 兄者が、ああ、俺の兄者がまさかあんな軽薄な輩のみが集うヤリサーなんぞに! 「驚くよなっ、なっ?すまない…俺も最初は槍サークルかと思って、そんな渋いサークル活動をしている学生がいるのかと興味を惹かれたんだが、いやまさか」 「そんな古典すぎる勘違いするか?!ベタすぎりゅいや兄者ならやりかねん!」 舌を噛みながらもキレちゃった理衛が叫ぶが翠龍は構わずに話を続ける。 「ヤ…ヤるからヤリサーなんだな……いや本当に驚いた。大学とはすごいなと思ったもんだ」 「いやもうなァんでそんなとこ入ったんですか兄者みたいな人が!あんなとこ飲んで騒いで猿みたいに男と女が盛って…ううう兄者…そんな…兄者も……、いやいや待ってくれまさか今も在籍している? っあああ、すぐに辞めてください!兄者の情操教育に悪い!!」 「理衛、落ち着いてくれ」 宥めるように翠龍が理衛の肩に手を置くが、理衛はそれを跳ね除けて吠える。 「ッッ解釈違いです!!!!」 大人が取り乱す様には家庭の都合上、免疫のあった翠龍は、理衛の呼吸が落ち着くまで待ってからゆっくりと口を開いた。 「…理衛。この際だから包み隠さず打ち明けたい。俺の入ったヤリサーは、本格的なヤリサーだったんだ」 「本格的なヤリサーとは」 この兄者には付いていけないーー。 理衛は投げ出そうとしたが、なるべく落ち着いた声色を心がけながら、翠龍は本格的ヤリサーである自サークルについて出会いから今日に至るまでを説明した。つまりこうだ。 ・槍サークルと思いブースに近づいた兄者、部長の痴女に捕獲される ・そのまま入部歓迎合宿に連行される ・三日三晩のスペシャルメニューで尻を開発される ・立派なアナニストになる 「最悪なんだが?!」 まとめるのもおぞましくて割愛したが兄者が非処女だという時点でもう無理だ。理衛の心のシャッターが降りる。 兄者の尻に押し入った老若男女、全員殺してやりたい。 「老人は経験ないな、みなサークル仲間だから若者だ」 「キィェェぁぁぁ!!」 耳を塞ぎながら発狂する理衛をよそに「だから、」と翠龍は唇を舐めた。 「老人…とは言わずとも、歳の離れた年上とシてみたい……」…とは思う、ちょっぴり。 恥じらい消え入りそうな声で紡がれて理衛は耳を塞いでいた手を外した。元よりしっかり塞いでいた訳ではないので。 「……つまり、俺としたいということですか」 妙に事務的な口調になってしまった理衛に、翠龍は目を逸らしつつもこくんと頷く。 「そもそもこの部屋から出るには、そういうことをする必要があるんだろう?ならば俺は、お前と……その、お前がこんな、はしたない俺でも良ければ」

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